瀬戸内圏研究センターSeto Inland Sea Regional Research Center

平成23年度 香川大学瀬戸内圏研究シンポジウム
 稲田 道彦氏 島民主体の文化・観光資源を活用した地域振興の在り方について~瀬戸内海島嶼部の持続可能な地域づくりにむけた提言~

【講演内容】      
 稲田と申します。よろしくお願いします。      

 
 私たちは5名の教員で組織した自称「人文社会班」で研究をしております。専攻はそれぞれ考古学、政治学、宗教研究、観光学、社会学、地理学です。私は地理学をやっておりまして、この班の取りまとめをやっております。

 まずは「はじめに」から話を始めていきたいと思います。

 これは1980年代の伊吹島の写真です。ここに雨どいがあります。伊吹島は島全体が岩盤でできた島ですから、1mも掘ると岩盤に当ってしまいます。ですから水を汲むことができない島でした。島民はイズミと言うのですけれども、井戸を掘って雨水を全部溜めてこの雨水を雨が降らない時期に効率的に使うシステムを作り上げていました。

 それから、これは多度津の沖にある高見島の板持という集落の水の集め方です。どういうふうにしているかというと、家の裏に土壁があり、そこから染み出してくる水を溜めて、水を使っております。

 3年前にこの家に学生達と行った時にこの家は廃屋になっていて、学生さんは喜んでいますが、家には近づけない状況でした。
 この家の前はこういう篠竹の薮になっていて、とても家まで行くのが大変な状況になっています。
 

 瀬戸内海の島々はインフラを整備すれば住みやすくなって、結果として人口が増えると単純に考えていたのですが、日本経済の成長の中で島の人口は逆にどんどん減っていきました。
 島の人口減少は高齢化、それから人口の自然減少と書きましたけども、社会的に出たり入ったりするのではなく、高齢者が死ぬことによって人口減少が起こっております。つまり島はいつ死に絶えてもおかしくない。島の高齢者はそれを自覚する状況になっております。
 人口の自然減少で住むことの苦痛と書きましたが、人口の少ない中で長く暮らすというのは、そんなに楽しいことではありません。

 これは志々島の写真です。左上の写真には集落が見えます。ほかの3枚をよく見てみるとみんな廃屋になったり潰れたりしています。人々はこういう景色を当たり前のように見て暮らしております。心理的には愉快なものではないと思います。島の人たちはボソボソっと、「うちだっていずれああなるのよね?」ってずっと言い続けています。
 私は志々島にはよく通いました。人口が減って、今生きている人は何度も先輩が死んでいくのを見て、自分もいずれそうなるだろうという予測の元に生活をしていらっしゃいました。

 これは人口変化であります。1976年ぐらいに急激に減っていたのが緩やかな人口減少に変わっています。この変曲点時に小学校と中学校が廃校になっております。ですから人口がどんどん減って、そして学校がなくなって、その後人口の減り方が少なくなりました。それでも1970年からですから40年間ずっと人口が減っていく現象の中で人々は生活をしていることになります。
 最初は移転によって人口が減っていましたが、いつの間にか死亡によって人口が減っていることを示します。ですから住まない家が腐って落ちていくという状況の中で人々は長く暮らしていました。30から 40年間という長い間そういう状況で暮らしてきたと言えると思います。

 人口の自然増減・社会増減というのがあります。自然増減というのは死亡と誕生による人口の変動でありますし、社会増減は転出・転入による人口の減少です。人口が長い時間をかけて減り続けている中で、志々島で最後に赤ちゃんが生まれたのは1976年です。ですから、76年からは島で赤ちゃんは生まれないで人口が減り続けていることになります。僕はこのような島が瀬戸内海の島の一つの典型だと思っております。
 私は島に何度も通って、人々がどのように生活しているのかを見させていただきました。


 ところが、2007年にAさんご夫妻が帰ってこられました。それから2008年にBさんとCさん、2008年にDさん、2009年にはEさんご夫妻とお兄さんとFさん、2009年にGさんと、一挙に9人が3年間で帰ってこられました。島からすれば大きな人口の変動になっております。
 現時点で、約20人の島民が暮らしていることになっています。住民票での人数ですので、実は入院されていたり、特養に入っておられる方もあったりして、12、13人のところに9人もの人が一気に島に入ってきたという現象が起こっております。これから志々島に対する新しい動きが始まるだろうと思っています。
 しかし、この中で職業を持っている人は一人もいません。年金世代といいますか、仕事が終わって定年退職をされて島に帰ってこられた人が圧倒的多数で、女性はAさんの奥さんとEさんの奥さん、後はみんな男性です。それからAさんの奥さん以外は全員子ども時代に志々島で暮らしたことがあります。つまり、おじいさんやおばあさんが島に住んでおられるから帰ってきたという人もおられますが、ほとんどの人がIターンで、一時期に島を出てから、再び帰って来られたという人になっております。


 ですからこのことも今の島の生活の中で実は効いてくると思います。たぶん島に人が住んでくれたらいいと単純に思うのですが、島には島の独自で自分たちが創ってきた文化というものがあって、それに馴染むのがなかなか大変になっています。そういう意味では島の生活経験者が帰ってきた。
 特に、島の行事を尊重するような生活の仕方で入ってきているので、非常に溶け込みやすくなっておられます。親しくなって少し打ち解けた話をしだすと、「やっぱりね、島の人に溶け込むのは大変なのよ。」と奥さんがおっしゃられたりする。たぶんお互いに遠慮しながら島の新しい生活を作ろうとしている状況が何となく分かります。  
 彼らは今Iターンで帰ってきて職業はないけれども、彼らは60代でもう20年したらまた新しい何かが起ってくると思います。その時に産業がないのは致命的に効いてくると思います。      
 志々島は花の栽培が非常に盛んな島でした。特に露地栽培の花で、海が暖かいものですから少し時期が早い。特に春のお彼岸に間に合うような切り花の製作ができることで花の島であった時代があります。ところが今では温室の設備ができて、島でなくても生産ができるようになると島の花の利点が失われて勝負に負け、高齢化して労働者がいなくなる。でも、左上の写真は今もマーガレットの栽培が行われています。
 右上の写真は大楠です。志々島には樹齢1200年と言われているクスノキがあります。周辺は新しく帰ってこられた人を中心に、三豊市のボランティアできれいに整備されています。10年前は雑草の中にあった大楠の周辺が整備されると、行ってみようかという人が現れました。大楠をきっかけとした島の観光、小さな芽が生まれ始めています。
 左下の写真はまだ建設途中ですが、福武財団の援助を得て大楠と海が見える、見晴らし小屋が建設中で、Aさんご夫妻が中心となっておられます。新しい産業としては花と、ヤギを飼って乳を取って食品加工をしたいという希望を持っておられます。それから密蜂を飼いたい。まだ、巣箱を購入した段階なので蜂蜜は取れてはいませんが、小さな農産物を島の産物にすることによって、次世代のための産業づくりの小さな芽ができてきたところであると考えております。

 これは三豊市の広報誌に載った写真です。50年ぶりに志々島のだんじりが復活しました。高齢化、人口減少というのは結局人々の楽しみをどんどん削ぎ落としていく。
 こういう余分なものは諦めざるを得ないと思っていたところに、観音寺・三豊市の有志が集まって志々島のだんじりを50年ぶりに復活させました。50年という長い時間、人々の生活に置き換えて考えると、楽しいことを本当に諦めてきたといえます。こういう状況の中で、新しい人が帰ってきたことも遠からず効果になって、こういうことになるのだろうなと思っています。
 写真の奥の方に4、5人座っていますけれども、あれが元々の島の住民達で、昔のことを思い出しながら喜んでいる姿がよく表れた1枚です。

 次に、瀬戸大橋の話をしようと思っています。1988年に瀬戸大橋が完成しました。これが櫃石島で、岩黒島、与島、小与島です。この4島が有人島です。私も瀬戸大橋の建設中からよく知っているのですが、当時、この4つの島の将来をみんなでいろいろ考えました。
 与島は1番大きな島で、しかも中心の島です。この島がまだ村だった時代にはここに村役場が置かれていました。皆さんご存知のようにここにはフィッシャーマンズワーフや与島プラザという商業施設も置かれました。この櫃石島と岩黒島は漁業を中心とする島でありました。与島と小与島は元来石材業を中心とする島で、特に小与島は石材を大量に取っていて、石工さんが住んでいました。与島と小与島とは少し産業の性格に違いがありました。

 これが人口の変化です。緑色で示している与島の人口が最も多かったのですが減ってしまいました。岩黒島は無人島でしたが、江戸時代に佐柳島から7人の人が移住して島を開発して、島を起こしました。赤い線が岩黒島で、案外減っていない。櫃石島も減ってはいますが、与島、小与島の人口減少に比べると、減り方が少なくなっています。このように、瀬戸大橋が開通した時にはほかの島々は衰退しても外部から巨大資本が入ってきた与島は安泰だろうと、私達は素直に想像しておりました。

 実は島の人口変化が想像に反して逆転したのは驚きでした。特に与島は小学校の生徒数が2000年に0に、それから2002年には中学校の生徒も0になってしまいます。瀬戸大橋が開通した時に与島の小中学校はほかの島の人口が少なくなっても与島に集めれば良いということで、どちらも新築して立派な学校を作ったんですけども、これが0になってしまいました。逆に、あまり増えるとは思われてなかった岩黒島では、それなりに存続している。

 この現象をどう考えたら良いのか。瀬戸大橋フィッシャーマンズワーフは12月1日にとうとう再び閉館してしまいました。今も閉館中です。

 これが与島小学校の玄関で、今はこういう状況になっています。


 例えば岩黒島は瀬戸大橋が開通して民宿が3軒できました。漁業の島ですからご主人が魚を取ってきて奥さんがそれを料理して食べさせる民宿で、2年前に1軒廃業して2軒になりました。与島には旅館業はなくなってしまいました。これらをみていると、地元の人の生活に依拠した産業、すなわち身の丈に合った産業を持っている島の方が長続きするのではないかと考えるわけです。
 大きな企業を創業すると働く人や物資を島外に依存することになります。島外からの関与を前提にする開発は最終的に維持するシステムを持たなくなるのではないかという、1つの仮説が成立するのではないかと考えています。
 特に、我が国の景気変動の中で非常に与島の経済は翻弄されたと思います。島には観光資源は存在するのですが、適切な方法での開発という、ある意味で考えると短期間ではなくて中長期の展望を持った開発の方が長持ちするのではないかという仮説です。
 瀬戸大橋が開通してこんなふうに4島の生活が変貌してきたことを私達に1つの教訓として考えさせてくれているように思います。

 それから島にとって交流人口は大切であると考えております。外部からの目で島を見てくれる人や島に興味を持った人、それから小さいサイズの島の生活を尊重してくれるような人が島に来てくれる人が大歓迎です。

 島の人に話をしてみると、誰でも来てくれというのではなくて、今、自分たちが暮らしている島の生活のルールを守ってくれる人が来てくれることを期待しているようです。島からいろんなものを持ち出していこうという気持ちだけの人が島に入ってくると、人数が少ないので困ってしまう状況が起こってしまうと話しておられました。瀬戸大橋の開通を例に考えると、自分たちの島のサイズに合った開発を将来的に考えた方が島は長持ちすると考えております。

 次に、「瀬戸内国際芸術祭の住民評価とその規定因」という室井先生の調査結果を私から発表させていただきます。瀬戸内国際芸術祭の評価としては、文化事業、地域づくり事業、マクロ地域経済としての評価の3点があります。

 特に経済的な効果は50億円で、観光客は93万人でした。ですから、経済効果は大成功という評価になっております。
 今回、室井先生が調査された目的は、経済効果は高く評価されています。しかし、地域住民にとっての瀬戸内国際芸術祭をどう評価したらいいのかという問題意識です。次の瀬戸内国際芸術祭にどのように繋げていけば良いのかという提案をするために室井先生は4島、男木島、女木島、豊島、直島の島民にアンケートを配られて、事前と事後において島民がどのように国際芸術祭をみていたのか、問題提起をされました。

 芸術祭が始まる前の島民の期待として1番多かったのは活気があふれている、それから島の魅力を発信してくれるだろうという期待がありました。例えば交流というのがすぐに浮かびますが、これは低かったですね。

 こういう期待の中で芸術祭が開かれて、島民にアートの作品は気に入ってもらったのか。島によっていろんなアートが置かれたので一概には言えません。特に直島のように非常に近代芸術が立派な美術館で展示されたものと、例えば乳母車を並べた男木島のような事例があり、一律には比べられないけれども、男木島のアートは島民に気に入られております。島民にとって現代美術のアートが気にいった、どちらでもないという声もあるという状況になっています。

 アートは島の歴史文化を表現したのかどうかは国際芸術祭の目標の1つでありました。その面では男木島が高くなっています。1番芸術的にバラエティがあった直島の島民はそれほど高く評価していない。この辺りも面白いといいますか、島民と芸術祭との関係は異なっていると言えます。

 それから事前に説明を受けたかどうかが、後の芸術祭の評価に非常に大きく効いてくるように思います。特に直島は事前説明を受けていないと答えた人数が264人と多いものですから。人口の少ない島と多い島とでは一律には言えないところもありますが、事前に説明を受けたのは男木島と女木島で高くなっております。

 説明があった・なかった、気にいった・気にいらなかったという面からみると、説明があったと自覚している島々ではアートの作品に親近感があり、気にいったものが多かったようです。事前に島民に対してていねいな説明がある方がずっと島民とのシンパシーは良くなってくると思います。

 島に経済効果がもたらされるかどうかは、島によって随分違います。特に経済効果が最も高かったのは大勢の人が訪れた直島です。これは島民にとって経済効果があったのか・なかったのかという側面からですから、いわゆるお金の総量で測った経済効果ではありません。しかし、島民にとっての経済効果は男木島が非常に高くなっています。
 後で写真が出てきますけれども、芸術作品の1つが待合所に使われて島民がその中で物品販売をすることができた。ある意味では男木島の芸術作品の1つの性質も関わっていると思いますが、経済効果があったと考えるか考えないのかで考えると、実は島によって随分違っています。特に最も経済効果のあった直島であっても、島民のレベルからすると少しお金の経済効果とは違った評価を生むわけです。

 芸術祭は島に好ましい変化をもたらしています。やはりアート作品を自分たちでと捉えた男木島では好ましい変化をもたらしました。


 このことは次回も開催したいし、知り合った人との交流が評価の中で非常に良い評価を生むことに繋がっていました。つまり人との繋がりは国際芸術祭の評価を高めるようです。これは知り合った人がいる・いないということでの評価ですが、評価が高いのは知り合った人が多いということでもあり、国際芸術祭の評価を高くしております。

 そして誰と知り合いになったのかと聞きますと、アーティストであり、小えび隊でした。来訪者であると簡単に思ってしまいやすいのですが、そうではなくてアーティストとか小えび隊といった芸術祭をサポートする人との繋がりが島民にとって非常に高い評価であるということと関連があると考えられます。


 社会的交流と地域づくり、それから県の評価との関係、定住対策との関連についてです。
 芸術祭をきっかけに、男木島では小えび隊の人々が、芸術祭が終わった後でも、草刈りに参加したり、いろんな形で島の人たちとの交流を持っています。国際芸術祭は1つのきっかけにして、自分たちの住んでいる島がほかの人たちに褒められる。しかも生活が充実する方向に動いていくように思います。
 室井先生の結論の1部を引用すると、直島のように島民が国際芸術祭に依拠しなくても十分生活ができていくというのは非常に良いことで、いわゆる国際芸術祭のようなイベントに頼って島の発展を考えていくというのは、ある意味で島の生活が不安定になっているからであって、芸術祭をきっかけに島が伸びていくことが幸せなのか不幸なのかは分からないという結論が書いてあり、私自身もすごく考えさせられました。
 国際芸術祭の実行委員会を調べてみると、島の自治体の代表者は入っていません。ある意味、島のこれからの地域の発展を考えていくならば、島の自治体の人たちが実行委員会に入っているような組織も望ましいのではないかと提言されています。


 これは男木島の芸術作品です。この中で島の人たちが売店を開いています。こういうアート作品が芸術祭と島の人たちの生活を変えていくと報告されています。

 次に、観光学の金先生の研究を紹介したいと思います。
 人は観光地では移動しては立ち止まって観る行動を繰繰り返すことになります。「移動→立ち止まる→移動」をトリップといいます。金先生は、瀬戸内国際芸術祭の期間中に直島を訪れた観光者の行動特性を調べるため、GPS端末による歩行行動の調査とアンケート調査を同時に行いました。また、来訪者の属性に関する内容を知るため、アンケート調査も平行しておこない、来訪者の属性別行動特性を調べてまとめています。
 ローカル観光地には近隣地域からの観光者が多いのが一般的ですが、今回の8月の調査では、図で分かるように関東・近畿といった遠い地域からの来訪者が多いことがわかりました。

 行動調査では訪問先をアンケートで聞き取って分析する方法が多いのですが、本研究では、前にも述べたように、より精度の高い行動を分析するためGPSを用いて調査をしています。訪れた観光者の観光行動を直島の地図のうえにすべて表示して行動記録を表したのがこの図です。

 全員の歩行記録とアンケート調査内容を分析した結果、分かったことをまとめたのがこの図です。
 図の左側はせっかくの機会なので、できるだけ多くの観光地を回ろうとしたグループで、観光の形態で表現すると「目的指向型」といえます。それに対して、右側は急いで観光地を回るよりゆっくり直島の雰囲気を堪能しようとしたグループで、観光形態で表現すると「いやし指向型」といえます。
 まず、目的指向型ですが、若いカップル、若年および中年の男性のみのグループで確認できました。一方、女性のみのグループでは若年層から中高年層まで幅広い層で確認できました。
 次に、いやし指向型ですが、観光地のあまり回らずのんびりと過ごしたグループですが、カップルの場合は若年および中年層で確認できました。男性のみのグループでは若年層のみが確認できました。それにたいして女性のみのグループでは、若年と中年層で確認できました。
 このように2つの観光形態における観光者の属性の現れは観光形態の変化の再確認とはいえ、瀬戸内海地域に訪れる観光者の属性の変化を読みとることができます。また、瀬戸内海地域における今後の観光プロモーションの方向性を読みとることができます。

 最後に、観光や観光者を取り巻く主な環境の変遷をみると、今後の瀬戸内海地域で対応すべきことや観光者が瀬戸内海に求める(期待する)ことが一目瞭然に分かると思います。
 まず、観光の形態は、1960年代のマス・ツーリズムから2000年代に入ると地域の自然や社会的環境を大事にしようとするサステイナブルツーリズムに変わってきており、旅行する人に同行する人数も少人数化しています。
 次に、旅行の目的も昔は団体でみんなが行くから自分も行くという人が多かったのですが、近年ははっきりとした目的のある旅行が増えています。さらに、少しずつではありますが、リゾート地のような場所でのんびりしようとする旅行を楽しむ人が確実に増えています。このような観光の楽しみ型は観光先進国でよくみられるタイプです。
 第三に、旅行に同行する人数は減少傾向にあるといえます。最後に、利用する交通手段の変化ですが、従来は遠くに早く行くことが大事でしたが、ゆっくりとした移動を好む傾向が強まっています。これらの内容をひとつにまとめたのが観光形態の変遷図です。
 今回の直島での観光者の行動調査を通して、従来とは異なり遠方からの観光者が増えていること、観光地ではできるだけ多くの場所を回ろうとする観光行動からゆっくりとその地域の雰囲気を堪能しようとする観光行動の現れが確認できました。このことは、観光の変遷という大きな流れの中で考えると、瀬戸内海地域の観光の将来を予測しているといえます。瀬戸内海地域の観光価値をさらに高めるために、今回の解析結果を踏まえた適切な対応が望まれると金先生は結論づけています。

 考古学の丹羽先生は遺跡を使ったスライドに示す6つの旅のアイデアを展開されています。これは今までにない、違った視点からの瀬戸内のツアーです。

 その1つはサヌカイトを求めてです。サヌカイトは香川県の五色台の金山で発掘されて製造されていたのですが、島根県の縄文時代の縄文遺跡から発見されて、金山サヌカイトが島根まで運ばれていることが判りました。つまり縄文時代に金山サヌカイトを転々と運ぶ交易路があったことを意味しています。そういうサヌカイト遺跡を見て歩くツアーを提案されています。

 大賀先生は小豆島遍路の旧札所と言って、江戸時代には八幡宮という神社が札所の中に入っていました。しかし、明治になってすっかりなくなりました。でも景観的には神社を含む聖地という観点から考えると非常に巡礼者に感慨を与える景色になっていると言われています。特に小豆島遍路から神道が抜け落ちていく点を考えられております。江戸時代には観光という要素があり、仏教と同じだったものが、現在では観光的要素が小さくなっていると言われています。

 

 特に学生と一緒にお遍路道を整備することで、地元の人との繋がりが非常に大きくて、学生もやりがいを感じているとまとめられています。

 最後にスライドで示す本を印刷中です。今日までに印刷が間に合わなかったので、表紙だけお見せして私の発表に代えさせていただきます。
 どうもありがとうございました。



【質疑・応答】
Q.芸術祭と男木島・女木島・豊島・直島との関係をいろんな観点で比較されました。
 芸術祭の対応として、直島では民宿とか食堂は増えてきましたが、すでに地中美術館展示にまでアートは発展してきているわけですね。だから直島の島民は芸術祭をその延長として受け取っていた。
 それから豊島には家浦、甲生、唐櫃の3部落があります。豊島の島民には、アーティストとどれだけ自分が直接関ったかで、芸術祭の評価が違うわけですね。ですから、部落ごとにもし分けて調査をすると、例えば甲生は、50人程度の人口の少ない部落です。ところがこの部落にオーストラリア人が4人入り、部落の人はみんなで応援しました。芸術祭の開催前日にオーストラリア大使館員が東京からわざわざ訪れて、みんなでバーベキューをし、甲生の部落の人にお礼を言った。そういう島民たちは芸術祭に対して高い評価をする。家浦はどちらかと言うと作品が家の中にある。そういうことでニュアンスが違った。
 まだほかにもありますけども、男木島と女木島は比較すると、男木島もやはりアーティストとの関わり合いが多かったと私は思っています。以上です。


A.ありがとうございます。室井先生もそのように書かれていまして、甲生の人の達成感と言いますか、充実感と言われております。私が言葉足らずで申し訳ありません。


 観光に関して大変素晴らしい研究だと思います。県と一緒に瀬戸内海を活性化しようと思っている立場の者にとっては大いに参考になりました。瀬戸内海は世界一だと思っています。エーゲ海やベネチアのアドリア海に行ってきました。確かに、観光客は多いのですが、島の実力と言いますか、素養は圧倒的にこちらの方が上だと思います。残念ながら、このまま放っておくと瀬戸内海の島は近い将来に無人島になる心配があります。無人化したら終わりです。なんとかしなければなりません。

 瀬戸内海の島にはそれぞれしっかりした生態系があります。エーゲ海にもありますが、その1つは花です。10年ほど前からそれぞれの島に固有の花を植えていくという運動をしています。志々島は先ほども話がありましたように、花の栽培、切り花で生計を立てていた島であります。ところがそれが生産量は今や100分の1になってしまっています。そこでこの100分の1でも残そうではないかと、4、5年前からオーナー制でもって、島民と一緒にマーガレットを植えています。しばらく苦労しましたが、先ほど話にあったように、Iターンで帰ってきた皆さんがその後の花植えを続けておられるということですね。元々から志々島に住んでいる人の平均年齢は90歳に近いです。帰ってきた人が50-60歳ぐらいでしょうね。戻ってきた人たちが達成感を持つための良い1つのモデルだなと思っています。

 次に、瀬戸大橋の件です。比較的大きな島の与島の人口減少が激しくて、櫃石とか岩黒島では変化が少ない。私は、これの現象は四国そのものに当てはまると考えています。要するに櫃石にしても岩黒島は島の特徴である魚を活かして、数は少ないけれど民宿を営んでがんばっている。四国も四国の本当の特徴を活かさないといけません。瀬戸大橋がまた今度安くなりますよね。このようなことばかりすると、あっという間に四国の人口は減っていきます。瀬戸大橋の島と同じことが、拡大した状態で四国でも言えると痛切に感じました。

 それから瀬戸内芸術祭の話に移りますが、非常に含蓄のある話でした。男木島の話が出ました。やはり島には島固有の文化というものがありますし、島にいる人たちの危機感やまとまりなどが全部違いますね。先程、志々島の花の話をしました。男木島は何年前になりますかね、元々スイセンの切り花栽培が非常に有名でした。島民と一緒にそのスイセンを植えました。スイセンは斜面が好きですから、男木島には向いていますよね。今は1千百万本のスイセンの花が咲いています。数はおそらく淡路島を抜いたのではないかと思います。30人程の少ない作業員で植えました。これなどは人の危機感とまとまりの表れかなと思いますし、男木島はこういうこともできる島です。このような結果は芸術祭でも表れているように思います。

 一方、直島があのような結果になるのはある意味当然です。長い間現代アートの島になっていますしね。元々水島エリアの従業員が圧倒的に多い島ですから、ある面ではアートの世界と水島エリアの世界の分業ができているように思います。したがって逆に観光客との触れ合うのは直島で圧倒的に多く、男木島、豊島でアーティストと小えび隊に親しむ傾向は良く分かるような気がします。アーティストと小えび隊と島民が親しむのは非常に素晴らしいことです。瀬戸内芸術祭の最大の目的は海の復権です。言い換えると、島民の皆さん、特におばあちゃん、おじいちゃんが現代アートを通じて元気になってほしいという取り組みです。その為には観光客と仲良くしなければなりません。それ以前にアーティストと小えび隊と仲良くなるというのが元々の芸術祭の目的ですから、そういう意味では島民の意識調査の結果は非常に嬉しく思っております。確かにこういう方向からの意識調査は今までありませんでしたので、今回の香川大学の取り組みは大いに参考になったと思います。以上です。
※本サイトに掲載している文章・文献・写真・イラストなどの二次使用は、固くお断りします。