瀬戸内圏研究センターSeto Inland Sea Regional Research Center

香川大学瀬戸内圏研究センター講演会in塩飽本島
  丹羽 佑一 教授 「原始古代の瀬戸内海の物流-瀬戸内人は力持ち」

【講演内容】
 経済学部で考古学を専攻しております丹羽と申します。

 今日は、スライドに映しておりますように、原始古代の瀬戸内の物流というテーマでお話させていただきます。
 前のお2人の先生方は、現代社会に非常に役に立つお話をされました。私の話は原始古代ですので、現代社会にすぐに役に立つものではありません。
 本城先生は貝との対話、原先生は胎児との対話、といえるような研究を進められています。そのような見方からすれば、私の考古学というのは、まあ過去との対話ということなのでありましょうか。しかし、お2人の先生方の装置とは異なって、残念ながら、過去のことについて良く分かるような装置が、まだできていないということですね。ですから、お話することに困難な点があるかも知れませんが、まあとにかく話をしてみたいと思います。

 まずは、原始古代の瀬戸内の物流についてです。今からそうですね、13,000年ぐらい前になりますと、瀬戸内海は次第に海になってまいります。それまでは、瀬戸内海はなくて、幅10㎞程度の「大きな溝」だったわけです。13,000年ぐらい前から地球全体で海水の量が増えてまいりましたので、太平洋の方から、海水がどんどん瀬戸内海に、こう流れて入ってきました。そして海になったとういことです。海になってから瀬戸内海では、海上交通を利用して、いろんな物が移動するようになりました。移動した物の中には、特に重たい物が多かったということから、副題として、「瀬戸内人は力持ち」とつけました。
 瀬戸内人が瀬戸内海の海上交通に関与して働いており、船を介して力持ちになった、こういう意味が副題にはございます。
 さらにその下に、瀬戸内考古学の4つ不思議を考えるという、副題のまた副題が、数日前に頭に浮かびましたので、つけさせていただきました。
 と申しますのは、香川県へ来ましてから、私は丸29年になります。それ以来、香川県で考古学の勉強をさせていただいていますけども、不思議なことが4つございます。その4つのうち、いくつかは答えが見つかりそうですが、いくつかは、まあ少し先になるかな、ということでありまして、いずれも、瀬戸内の物流がこれらの不思議に関係しているようなことなんでございます。

 そこで、この4つの不思議を、今日お話しすることを通じまして、瀬戸内の物流の特徴を、検討していきたいということです。そして、その物流の特徴から、この地域の原始古代の社会、文化の特徴、そういうものを求めてみたいと考えているわけであります。

 それでは、ここに挙げさせていただきました瀬戸内考古学の4不思議の、そのまず1番目、「本島になぜ縄文時代の遺跡がないのか」ということです。
 本島に来てこんなお話をするので、皆さんビックリなさっているかも分かりません。
 しかし、縄文時代をさかのぼって、旧石器時代の遺跡も全くないのです。弥生時代頃から遺跡が出てくるようです。そして、古墳時代には古墳が造られるということで、島の人々の行動の跡が明らかになっていくわけであります。不思議なことに、ここ本島に縄文時代の遺跡はないのです。
 私は非常に困りました。というのは、今から15年くらい前に、丸亀市史の編さんがございました。私は原始古代を担当していたのですが、丸亀市史で、縄文時代について何か書かなければいけないのですけれども、本島に遺跡がない。本島にだけでなく、本島より西の広島、この辺りの島ですね、全然遺跡がありません。そのため、縄文時代のことが書けない、困ったなということです。
 そこでどうしたかと言いますと、遺跡がない理由について、書こうかということになりまして、しかしそれはまた、遺跡があるという理由の反対になるのではないかということですね。縄文時代の遺跡があることの理由を下の方に書いています。

 隣の与島、櫃石島、それから少し坂出の方になりますけども、沙弥島には縄文遺跡はあるんです。そこから遠く隔たっているのであれば理由になるのですが、離れてもいませんし、しかも縄文時代の生活では、広島の方が広いですから、山野にたくさんドングリが木になっていると考えられますから、生活しやすいはずなのにです。
 縄文時代の主食は、ドングリでございました。広島では、たくさんのドングリが手に入ったでしょうし、それから、シカやイノシシも、広い島でありますから、かつて生息していたと思われるんですね。
 与島とか櫃石島は小さいですから、特に海以外の食糧資源については、本島より劣るのではないかと考えられます。しかしそこには縄文の遺跡があるのです。それで、そこに遺跡がある理由を考えますと、その逆に、本島になぜ縄文の遺跡がないのかということになります。これがその不思議の一つです。

 次に、不思議の2番目、「坂出市・金山のサヌカイト製石器は、なぜ中四国地域で広く使われるのか」ということです。
 これは本島から離れ、隣の坂出の話です。坂出市街地の東側の、「金山(かなやま)」という山です。そこで「サヌカイト」が出ます。
 サヌカイトというのは、非常に良い石器の材料なのですね。香川県では、金山だけではなくて、その東の山の「五色台(ごしきだい)」からも出ます。特に、五色台の南にある「国分台(こくぶだい)」は有名です。
 しかし、配布していますレジメに書いていますように、サヌカイトは、広島県と山口県の境の、中国山地にある「冠山」でも出ます。それから、海を渡った九州の佐賀県多久市でも、サヌカイトが出るのです。それから一転しまして、東の方の奈良と大阪の県境に、二上山という山がございまして、そこからも、サヌカイトがたくさん産出されるのであります。

 それにもかかわらず、縄文時代になると、その金山のサヌカイトが、各地のサヌカイトが出る所を覆って、広く出回ってくるのです。中四国の広い範囲で、金山のサヌカイトを用いて石器作りが行われ、使われるようになります。それはなぜかということです。しかもですね、そのサヌカイトとは別に、石器のいい材料になる「黒曜石」が、西日本、特に中四国では、島根県の隠岐の島に産出します。石器の材料としては良いのですが、あまり広くは使われない。そしてまた、島根県を中心とした山陰地方にまで、香川県で作った金山サヌカイトの石器が出回っている、それはなぜか、ということです。

 それから3つ目の不思議、「広島の心経山遺跡は、なぜ山の上にあるか」ですね。心経山(しんぎょうざん)遺跡というのは、弥生時代中頃の遺跡です。皆さんよくご存じのように、弥生時代になりますと、水田で稲を作るようになりますので、低い所に人が住むようになってくるわけです。そういう地理学的な「ムラ」の位置に反して、心経山遺跡というのは、山の上に作られているのです。これはなぜなのでしょうか。

 それから4つ目です。
 屋島に「長崎鼻古墳」がございます。これは50m位の前方後円墳で、屋島の先端近くですから、長崎鼻という名前がついています。それは、4世紀末か5世紀の初めの頃、古墳時代を3つの時期に区分すれば、その初めで、前期の終わりの頃です。その頃の、石の石棺があるのです。その石棺は、なぜか阿蘇石製で、阿蘇溶岩でした。これがなぜかということです。
 そもそも、古墳時代の石棺というのは、香川県で作られ始めたのです。綾歌町の「快天山古墳」に3つの石棺があって、それが日本で最も古い石棺、石棺の始まりです。その石棺の石は、その快天山から少し東に行った、国分寺町の南部にあたる「鷲ノ山」の石を使っています。
 その一方で、香川県で石棺は、大きく2ヶ所で作り使われるのですが、主に、高松から善通寺あたりの石棺は、鷲ノ山の石を使います。国分寺町の地元の石を使うということです。もうひとつ、さぬき市津田町のあたりですね、あのあたりにも石棺が作り使われる地域であります。そこはちょうど、津田湾の地元の火山の石を使うんですね。
 つまり、地元に石があるということですから、香川では、わざわざよその石を持ってこなくても良いはずなのですが、長崎鼻古墳の石棺は阿蘇石製であったとういうことなのです。これが私にとっては不思議になるのですね。

 いま挙げましたのが4つの不思議であります。これらが、瀬戸内海の物流に関わっているのではないかということです。この約30年間の長い期間でありますけども、研究の中で分かってきたことです。
 瀬戸内の物流、原始古代の物流のお話をすることによって、この不思議を明らかにしていきたいと思っているわけであります。
 以上が前置きで、これから一つ一つの不思議と物流のお話しをすることにいたします。

 それではまず第1の謎、「本島になぜ縄文時代の遺跡がないのか」ということです。そもそも、旧石器時代に人々は、移動生活をしておりました。
 だいたい100㎞~200㎞ぐらいの範囲の中で、短期の居住地をいくつか設け、その間をグルグルと巡って移動していたと言われています。
 ところが、縄文時代には、移動の生活をやめて、定住の生活に入った。要するに、移動するのではなくて、一年間を通じて同じ所にずっと居を構えて暮らす、そういうムラができる時代です。そういう時代に、本島に遺跡がない。それはなぜかということですね。

 ここが本島で、ここが沙弥島であります。
 沙弥島の、ここに少し砂浜が見えておりますけども、これが「ナカンダ浜」でして、ここに、縄文時代前期の6,000年ぐらい前から、終わりにあたる3,000年ぐらい前まで、この遺跡がございました。まあムラがあったということです。
 しかし、この背後に写っている本島には、遺跡がないのです。前に話をしましたように、沙弥島のように小さな島より、大きな島の方が、住むには食糧資源が多くて、よほど良いだろうと思われるわけです。しかしなぜか、沙弥島に住んで、本島には住まないということですね。不思議に思われますよね。

 それで、この地図で遺跡の分布見て下さい。これらが、香川県において、最も遺跡数が増えた縄文時代後期、4,000~3,000年ぐらい前の遺跡の分布です。
 遺跡はどこにでもあるというわけではありません。本島にもありません。大体は集中しています。なぜ集中しているかといいますと、そこに地域社会があるからということです。人々は群れで暮らすからです。それで、8つほどあります。
 ここが本島、これが、先ほどの19番、沙弥島のナカンダ浜です。これが、17番、与島の遺跡であります。それから16番、これは櫃石島の大浦浜遺跡です。こういう遺跡があります。それぞれの島に、縄文社会の遺跡がある。けれども、脇にある本島に遺跡がないのはなぜかいうことで、それでは隣の19、17、16に、なぜ遺跡があるのかを検討したわけです。

 皆さんにはお配りしていませんが、それを検討した1つの資料がここにあります。
 数字が小さくて見えにくいと思いますが、これは、櫃石島の「大浦浜遺跡」です。それから、これが岡山県の「里木貝塚」です。
 両遺跡の比較をしましたところ、大浦浜遺跡は、縄文時代の前期から晩期までの遺跡があります。
 岡山県倉敷市の近くにある里木貝塚は、大きな遺跡でして、縄文時代の前期から同じように晩期までの遺跡があります。どちらも、地域社会の中心になるようなムラだといわれている遺跡です。
 その2つの遺跡からは同じような土器や石器が出てまいりましたが、出てくる土器の量が全然違います。土器の量を比較したのが、この表ですね。「船元Ⅰ式」とはですね、ちょうど、縄文時代中期の初めの頃に使われた土器ですが、その土器が使われた頃の土器の量を比較しますと、大浦浜の0.9に対して里木は100、1対100なのであります。

 次の時期を見ますと、大浦浜遺跡が3、そして里木遺跡は100で、3対100です。そして「船元Ⅲ式」という時期になりますと、7対100です。
 やはり圧倒的に、里木貝塚の方で、土器量が多いですね。そしてその土器量を、その遺跡における人々の活動量に換算いたしました。
 この換算の仕方は複雑ですから、その結果だけを示します。まあ、そんなものかなと聞いていただきたいと思うのでありますが、土器の量から、その遺跡における人々の活動の量を比較いたしますと、「船元Ⅱ式」という時期は、42対1という比になる。大浦浜は、里木貝塚の42分の1しか活動量がないということです。
 次に船元Ⅲ式というところがありますね、43対1であります。活動量が大浦浜の方が、非常に少ないということになりますね。それで、その活動量の数字が、42対1とか43対1とか似ていますので、この数字が、大浦浜遺跡と里木遺跡との活動量の違いを、平均して示しているのではないかと捉えることにいたします。そして、先ほどお話しましたように、大浦浜遺跡と里木遺跡は縄文時代の遺跡で、定住村落があるということですね。
 そうすると、里木貝塚の方が、1年間365日そこに人々が居たとします。ところが、大浦浜遺跡は、活動量が42分の1や43分の1でありますから、1年間にあまり活動しなかったということで、里木遺跡と比較いたしますと、大浦浜遺跡の活動量というのは、約10日分しかない。この辺に計算した数字を書いています。

 要するに、里木遺跡は、縄文時代の一般的なムラで、1年中そこに人々がいて活動がありました。一方の大浦浜遺跡は、1年間のうち10日ぐらいしか人が逗留していなかったということになります。
 こういう大浦浜のようなタイプの遺跡、これが先ほど見ました沙弥島ナカンダ浜の遺跡や、与島の遺跡もこのタイプですね。ずっと人々がいたけれども、1年間の活動量に換算してみると、10日ぐらいでしかない。
 もし、そのような遺跡が、瀬戸内海の沿岸部に沿ってあるとしたら、1ヶ所に短期しか滞在せずに、点々と移動して行く人々がいたと考えられます。大浦浜遺跡には10日いて、沙弥島も10日、それから、与島にももう少し長くいて、対岸のですね、沿岸部の遺跡の中にも、そういうタイプの遺跡があったとすると、瀬戸内海のですね、津々浦々を巡る人々がいた、旧石器時代の人々の生活によく似た移動をしていた、ということになります。

 では、なぜ彼らは点々と移動するのかであります。
 旧石器時代の人々は、食糧を求めて移動していました。ではこの人たちは、どんな食糧を求めて移動したかということですね。
 そこで1つ考えられるのは、海ですから魚を追いかけて移動したと考えられます。しかし、縄文時代には、魚を追いかけて獲る漁法はありません。彼らの漁撈(ぎょろう)の道具は網です。これも不思議で、釣り針なんて一点も出てきません。網のオモリしか出土しないのです。しかも、縦網です。
 この時代は、縦網を張って干満の差で魚を獲る、これは一番原始的な漁法ですね。ですから、魚を追いかけて移動するようなことはない。であるなら、なぜ点々と移動するのか、ということであります。
 
 私はそれを、金山でサヌカイトを採って、それらを中四国、特に中国地方に運び込んでいくために移動していた、という推測を立てたわけです。
 彼らは、海に行きますけれども、漁業をする漁民ではないので、「海民」という名前を付けました。「瀬戸内縄文海民」ということです。ここの16、17、19番の遺跡、いまこれには、瀬戸大橋が架かっています。縄文時代は、ここが、その縄文海民の、サヌカイトを携えた海路(交通路、道)であった、というふうに位置付けることができます。
 それで本島になぜ人々が住まなかったのかというと、もう皆さんお分かりだと思いますが、この交通路から本島は外れていたからと考えられるのです。本島がこの与島の所に来ておれば遺跡があったのでしょうが、彼らにとっては短期の滞在場所であり、食糧資源のある大きな島は、移動の目的とするところではなかったということです。これが本島に遺跡がなかった理由です。

 これは、その当時の瀬戸内の物流に関係していたということになります。ただし、あくまで推測でありますので、今後確かめる必要があります。つけ加えますと、運び出す時は、サヌカイトの原石を運び出すのでありましょう。といいますのは、当時、各地のムラで石器を作っていました。だから金山のサヌカイトは、原石材として運び出されただろうということです。
 しかし、16、17、19番の島の遺跡で、そういう石材は出てこないことが分かりました。そういうことで、この海民の存在、あるいは海民の役割を明らかにするために、私はついに金山の調査をすることにしたわけであります。
 金山の調査によって、金山の石器生産のあり方を調べ、海民が金山に来ていることが分かれば、海民が、実際にサヌカイトを運び出していたことを確かめることができると思ったわけであります。それで次の不思議に入りたいと思います。

 次の不思議は、「坂出市・金山のサヌカイト製石器は、なぜ中四国地域で広く使われるのか」についてです。
 先ほどの海民の話からご推測いただけたと思いますが、海民は、金山のサヌカイトを専門に運び出し、各地に持って行く役割を持っていたのでないかということでした。
 すなわち、冠山、隠岐、二上山、あるいは九州の多久という地域には、石材を取り出して各地に配って回る集団は形成されず、金山にだけそういう集団が形成され、金山のサヌカイト製品の石器が広く出回ることになったのではないかと考えられるわけです。先ほどの、本島になぜその遺跡がないのか、ということも理解されます。それを実際に確かめなくてはならないということです。

 金山のサヌカイトが、二上山にまで広がりますね。この辺りが隠岐の黒曜石の広がり、この辺りが九州・多久のサヌカイトの広がりで、範囲は地元集落です。これは、縄文時代の次の弥生時代の初めの頃になると、さらに広くなります。要するに、二上山の近くまで金山のサヌカイトが入っていきました。このように、金山の石を切り出して各地に運んだ専門の集団がいた、ということを立証したいということで、金山の調査に入りました。次に金山の調査を見ていただきたいと思います。

 これが金山です。手前が綾川ですね。
 先ほど石棺の話をしましたけども、香川県の石棺は、大阪の方まで運ばれておりました。この綾川の上流の位置からです。棺材産地の鷲ノ山が近くにあります。この川を下って海に出ました。これは後でお話します。

 これは金山の山頂近くにあるサヌカイトの露頭です。
 サヌカイトは1つの大きな石で、筋目に従って割れています。これはひとつひとつが大きい。こんなに大きいのを昔の人は加工できません。ですから、こういう大きな石は、金山にあっても、石器の石材には使用されなかったということです。

 調査は、まず金山の全体を知りたいということで、北の地点、東の地点、南の地点各地点に分けて実施しました。

 それで、ここに調査の目的をまとめています。
 まず、当時の石器を作る技術と石質の関係ですが、要するに、金山のサヌカイトが他の石よりもその技術に合っていたので、みんなこぞって金山の石を求めたと考えられます。ですから盛んに取り出されそれが分布範囲を広げた、調査の目的は、これを検討することでした。
 次に、金山の石材産出規模の検討で、他の地域の石器石材産地よりも、産出規模が大きかったのではないかということを調べました。
 それから、石器石材生産の方法と、どの程度の規模で生産されていたかを明らかにすることです。
 次に石材を作った集団の特徴です。私は専業集団であったと思いますが、それを検討します。石器石材生産集団ですけれども、当時としては、大きく2通り考えられます。その1つは、専業集団が金山へ来て石材を作る、そして、それを各地に持っていくものと、もう1つは、各地の地域社会から石を採りにきて、自分の所へ持って帰るものです。その間をとると、ひとつの地域社会の集団の代表がまず採りに行き、持ち帰り、その地域から、リレー式に各地域社会へ運ばれる。そういう方法もあるということです。
 しかし、大きく2つに分けると、2種の専門の人々が、それぞれのことをやっているということです。それが、石器生産の仕方の違いに定まってくるのではないか、それを検討してみようということです。それから、金山で石器まで製作したかもしれません。それは、流通集団と石器製作集団が一緒の場合です。そういう流通集団も設定して、その製作について、金山の発掘調査で明らかにすることです。そういう目的をもって調査を始めました。

 そこで、金山の石材生産と、その流通集団に深く関わると考えられる調査結果だけ、いくつか示したいと思います。4地点で調査したもののうちの2地点について、お話ししたいと思います。
 これが東1地点ですね。2m四方でこういう風に掘る範囲を設定いたしました。ここが地表面ですね。この金山では、2,000年前の弥生時代の技術で石を割ってできた石材が表面に分布しています。新しい技術ではありません。おそらく、山の上に土砂はそれほど堆積しないので、金山の地表面は2,000年ぐらい前から現在まで変わってないと考えられます。この2,000年前の地表上に、あまり土が溜まってないということです。私たちは2,000年前の状態と考えて良いと、掘ってから考えてみました。ところが、その堆積では、逆に非常に具合が悪くなります。2,000年前からそれらは露出しておりますから、それが荒らされる危険性があります。ですから、金山という遺跡は、管理が非常に難しい遺跡だということであります。

 次は東2地点です。これは、上からほとんど2mぐらいの深さです。ずっと石ばかりが堆積しています。
 金山にはサヌカイトが埋まっているわけで、ここに土がありません。黄色い点線のところだけ、多少の土がある程度です。
 それから、この下ですね、これは、金山の、おそらく10,000年以前の土といわれる地層ですが、10,000年前の土から、ちょっと石が混じった土の層があります。その上に、人間が打ち割った時にできた、厚い石の破片の層が、金山の傾斜面にあります。これは異常な堆積の仕方です。山では、このような2mの厚い堆積はありません。しかも、そのほとんどが、数百年の間に形成されているんですね。数百年かけて、人々が石材生産のために石を割った、その活動によって形成された破片ですね。斜面に穴があって、穴の中にこういうものが流れ込んでいる。要するに、穴の中だけにこの堆積があるということすね。しかし、穴の輪郭がありません。その穴は、斜面に対して正対して、斜め上から掘っていく、オープンカットです。

 次に見ていただきたいのはこれです。今このあたりを見ていたのですが、上から写した写真の、その壁の上の方から下の方に、ここに掘り込みがありますね、これは10,000年ぐらい前に形成された地層です。そこを掘り込んだ跡があったということですね。
 ここ窪んでます。これが10,000年ぐらい前の金山の地表面で、ここに掘り込んだ跡があります。おそらく、ここにサヌカイトの原石があるんですね。この原石を掘り出すために、穴を堀り込んだ跡ということです。すなわち、これは10,000年前の地面を掘った跡です。盛んに打ち割られた石の元が、この10,000年前の土の中に入っていた石と考えられますので、これを掘った時期というのは、この石が打ち割られ、破片が堆積したその時期ということであります。まあ、そういうことで、これが、縄文時代の終わりの頃か、弥生時代の初めの頃の石材の生産の跡ということが分かりました。

 これが数百年の間に溜まった堆積状態を示す壁ですね。上部から流れ込んだということです。次に、これが弥生時代の初め、縄文時代終わりの頃の、金山における石器生産の跡を示しています。どんな石器が作られたかというのは、後でお話しいたします。

 これが南の地点ですね。ここでは、先ほど見たような堆積がありません。すなわち、縄文時代の終わりや弥生時代の初めの頃、南の方では、石器生産が行われてなかったことが考えられます。
 しかし、一番下の第7層から約20,000年前の石器が出てまいりました。どうして20,000年と分かるかといいますと、20,000年前の技術によって作られた石器が、出てきたからであります。まあ、この遺跡の発見から、金山では、旧石器時代に石器生産はそれほど盛んではなかったいうことです。しかも、それは南部に限られていたことになります。

 次にここから出てきた石器を見たいと思います。これは、地表面から出てきた2,000年ぐらい前、弥生時代中頃の石器です。これは、このままでは石器としては使えない、石器の元となる「石核」になる破片で、ここが大きく窪んでおりますね。
 この「剥片(はくへん)」が取られた跡です。剥片を取る元の石が、石核です。弥生時代の中頃、約2,000年前、金山では石器は作ってない。石器の元になる剥片を、さらに打ちかいて形を整え、大きさを整えて石器にするわけです。こういうもの(破片一剥片)と、その元のこの石核というものを作っているということです。


 それから次に出てきたのは、弥生時代の初めから縄文時代終わりの頃の、その石器生産に伴って出土してきたものです。
 これは石材ですね。石核だけです。これから剥片を取って、その剥片から、「石鏃(せきぞく=矢じり、ナイフなどを作るもとになるもの)」、石器を生産します。弥生時代の始まり、縄文時代の終わりには、これしか作っていないということが分かりました。



 これ表裏とありますけれども、これですね。これはちょっと薄い石核ということであります。




 ところで、石器を作っていないと申しましたけど、ある地区に限っては、このような形にしてあります。これは石鍬(いしぐわ)で、失敗品が捨てられているということですね。で、これが東の2地点にだけあります。
 それと関連するのは、岡山県と香川県に限ってサヌカイトで作った石鍬が出るということです。だからもしかしたら、この東の2地点は、岡山県から、あるいは香川県の縄文人が石を採りに来て、そこで石材を作り、すでに石器を作っていたという可能性もあるとこういうことでございます。

 調査のまとめです。
 旧石器時代は、製品まで製作して、製作した人たちが自分で使うということです。
 これはなぜかというと、彼らは移動生活ですから、移動先も生活地です。ですから金山でも生活して、石器を作って石器を使うことになります。縄文時代前半になりますと、旧石器時代的な石器生産もあるかも分かりません。調査でははっきり分かりませんでしたが、縄文時代後半から弥生時代初めになりますと、板状の石核を作り、一部では打製の石鍬も作っていたということであります。
 それから、弥生時代の中期、ムラで石器は作られなくなってしまったということですね。石器は、それまで、それぞれのムラで石材を仕入れて、石材から石器を作る。金山では作っていないということで、旧石器時代と大きく異なっていました。定住生活になったからということですね。そして一方では、金山の石材の流通があったということです。それから、弥生時代の中期には「剥片」まで作りだしたということです。

 それで、この剥片とは何かということですが、ここに石器の製作過程を示したものがあります。これは原石、石核、剥片、石器ということで、原石から石核というものを作り、石核から薄い破片を打ち剥ぐわけですね。これが剥片です。この剥片の形を整えて石器にするということです。
 ところが、弥生時代の中期になると、剥片までを作るようになります。しかもその剥片が、金山だけの技術で作られたということです。ということで、弥生時代中頃になると、石器を作る専業集団ができたようです。その専業集団が流通集団にもなって、各地に運んでいたことが分かります。
 ではその前の段階が専業の集団だったかどうかは、まだ分からないということです。各地から採りに来ていたかどうか分かりません。ただ今後、こういう失敗品を丹念に調べて、規格というものがもし見つかれば、専門の集団が抽出できるのではないかと考えております。まだ研究の途中ということで、コンテナ1,000箱分も石が残っております。それを図面にとって、規格があるかどうかをチェックしていくには、かなりの時間が必要です。以上、金山の調査から海民の姿をそこに発見するということでしたが、まだ研究途上にあるということです。

 次の謎、「弥生時代の心経山遺跡はなぜ山の上にあるのか」についてです。これは、私の不思議だけではなく、学会の不思議でもあります。それで特別な名前が付けられています。特に、弥生時代の中頃、瀬戸内海に高地性集が多かったということで、弥生時代の研究で、瀬戸内海の高地性集落の研究が一つの大きなテーマになっていたわけです。

 これは庄内半島で、詫間町の庄内半島の真ん中にある「紫雲出山(しうでやま)」です。標高約350mのこの山の上にも遺跡があります。これは、高地性集落の代表だと言われています。その少し東の広島に心経山遺跡があって、これも高地性集落です。
 紫雲出山遺跡は、1950年代後半に、京都大学が調査いたしました。調査の結果、弥生時代の終わり頃の、日本の歴史を記録した「魏志倭人伝」の中の「倭国大乱」に関係するとされました。国と国とが相争っている記載が、魏志倭人伝にあります。

 縄文時代には国はありませんでした。地域社会の人口が大きくなる弥生時代になってから国ができたわけですが、現在のような国ではなくて小さい国でした。そういう国が30ぐらいあり、それが相争っていたんです。そこで、こういう高い所にムラを作るわけで、特別な役割があるということです。そういうことから、瀬戸内海が倭国大乱の舞台になっているのではないかということです。
 ここに近畿地方があり、岡山があり、そして九州があります。水軍を持って、各方面から領土を拡大するために相争ったということです。岡山は香川の地を侵略に来たのではないかというような想定の元で、政治的な緊張も含めて、それに対処した軍事施設としての見張り台、現在でいうとレーダーサイトとして、こういうムラ遺跡が設けられたのではないかということです。
 もちろんこの場合、争いというのは、それぞれの有力な地域の勢力間の争いですから、この紫雲出山の山頂にいた人、これが争いの主役であったかということが問題なんですね。

 このようなことを考える時の根拠として示されているのが、紫雲出山の山頂から内陸の方を見た時に見える景観です。
 この山頂から見えるのは、善通寺の山々ですね。この山のふもとに善通寺の地域があります。そこに、恐らく当時としては、香川県で最も大きい勢力があったと考えられています。

 その当時、お祭りの青銅の道具を、各地の政府(クニ)が持っていたわけですが、香川県の8割が、善通寺に集中しているわけですね。大きな勢力(政府)があったという証拠です。
 その政府があった善通寺と、紫雲出山が可視的に繋がっていたということです。紫雲出山で得た瀬戸内海の軍事情報が、善通寺に送られていたということです。善通寺の大きな勢力と、紫雲出山遺跡の軍事基地的な役割が結ばれます。
 もっと端的に申しますと、この軍事基地、紫雲出山の遺跡は、善通寺の勢力が作ったのではないかということです。このように、瀬戸内海の高地性集落は理解されています。ですから、紫雲出山遺跡は、善通寺の勢力によって、倭国大乱に関連して造られた基地であるという可能性です。
 ところが、近年の意見で、心経山遺跡や紫雲出山遺跡があった弥生時代の中期は、魏志倭人伝より前の時代で、大乱にはそもそも時期的には合わないということになります。もうひとつは、岡山にも近畿地方にも香川にも九州にも、瀬戸内海に領域を広げるという大きな勢力は、形成されていなかったということが明らかになってきました。そのことから、戦争、倭国大乱による軍事施設として設けられたものでないのではということになってきています。

 これは善通寺の我拝師山(がはいしざん)の銅鐸です。
 この銅鐸は、鋳型から、大阪府茨木市東奈良という遺跡で作られた銅鐸ということが分かっています。それが、海上交易で運ばれてきたということです。
 こちらは、九州で作られた銅剣銅矛です。これは、北九州からの海上交易でもたらされたということです。
 ですから当時の瀬戸内海は、その海上交易が非常に盛んであったということです。そこで、海上交易を保護するといいますか、時には海上交易物を略奪する水軍も形成されていたと考えられますから、高地性集落は、島や沿岸に海上交易を展開している大勢力のために作られたということでしょう。

 これらは香川県東部、旧寒川町の森広遺跡から出てきた「巴形土器(ともえがたどき)」です。
 これは、盾に装飾として付けていたもので、吉野ケ里遺跡からも同じものが出ています。佐賀県の吉野ケ里遺跡は弥生時代の大遺跡です。邪馬台国の中心施設を示すものではないかと言われているのでありますが、そこから出土したのと同じようなものが、香川県にもあります。
 これは、北九州からの海上交易で手に入れられたと言われているわけですから、その不思議についても、銅鐸の場合と同じように、弥生時代の水軍は、瀬戸内海の物流とどのように関連して形成されたものか、これを問うことになります。時には、海上交易を妨害・略奪する、そういうことを主体に、高地性集落の住民が関わっていたかということでございます。

 最後に「屋島、長崎鼻古墳の石棺は、なぜ阿蘇石製か」という謎についてです。

 その石棺というのはこれです。これは九州の石棺の形をしています。
 恐らく熊本県で作られて、そして屋島に入ったということです。これは、屋島長崎鼻の石棺ですが、香川県の石棺は、大阪、徳島、岡山に運ばれているわけです。
 そうして、その運ばれた所をつないでいくと、当時の瀬戸内海の航路が復元されます。

 小さい地図ですみませんが、航路が復元されています。しかも、九州からの瀬戸内海航路に2つありました。
 ひとつのコースは、瀬戸内海を渡って岡山の沿岸部に出て、岡山の沿岸部から東に行って大阪の淀川に入る。淀川からさらに淀川上流の木津川に入って、奈良に行ったコースです。
 もうひとつは、香川県観音寺から海を渡らずに、香川県の岸に沿って東に進み、同じように淀川の河口の入江を奥へ入っていくと、大和川の口が開いています。この大和川をさらにさかのぼっていくと、大阪の柏原に出てきます。そこに実は、香川県の鷲ノ山石で作った石棺が納められているんですね。この大和川から、さらに生駒山地を東に抜けて奈良に入っていくということです。
 要するに、瀬戸内海の南路だと、大和川をさかのぼって奈良に向かう航路で、北路は、瀬戸内海から淀川に入って木津川に入り、北から奈良に向かう航路です。こういう、2つの航路があったということです。
 この瀬戸内海南路によって、香川県に阿蘇溶岩で作った石棺が入ったということです。そしてこの航路は、大和にある中央政府の海上交通を保障する航路だと考えられています。

 なぜかといいますと、この航路は、そのターミナルあるいは出発点が、大和に求められるということです。この航路の意味ですが、大和の政権が西日本各地にある政府を統合していく時に、軍事的な活動に伴うものであると日本書紀にも記されています。
 もうひとつは、朝鮮半島の鉄を獲得する、あるいは各地に軍隊を派遣するために必要な航路であるというふうに考えられます。このように考えてみますと、はじめてこの航路に意味がでてくることになります。畿内の大和の政権、あるいは政府の航路ということになるわけです。
 この航路で石棺が各地に運ばれ、運ばれた豪族同士の「特別なつながり」を示していると考えられるわけです。そしてその特別なつながりが何かと言えば、大和政権の政策の道、「水軍の道」であります。恐らくは、大和政権、政府の水軍を構成していたのではないか、逆にいいますと、そこからそういう結びつきができたのではないかと考えるわけであります。

 時間がオーバーして申し訳ございません。これが私の不思議、なぜ阿蘇の石なのかに対する解答です。「それは、水軍構成員同士のつながりである大和政府のつながりそのものを示すものである」ということです。

 こういうふうに、原始古代に限って瀬戸内海の物流を見てきたわけですが、その後、瀬戸内海は古代、奈良時代、中世、それから近世と移っていきました。
 奈良時代には、税として米、魚、あるいは焼物(須恵器)、塩といったものが香川県の特産品として送られたということです。
 それから、中世になると、沿岸部の柔らかい凝灰岩がたくさん都に運ばれました。
 近世になると、北前船あるいは西回り回船で、北陸や東北地方の物質が、瀬戸内海を西から東へ運ばれたということです。その主体として、この本島も大いに栄えました。最近少し元気がございませんが、それは瀬戸内海に物流がなくなったというわけではなくて、本島が、縄文時代のように、その物流から外れているということであるのかも分かりません。

 そこで、この本島がいかにして元気になるかということですが、今までは物を運んだ、これからは人を運んだらどうでしょう。すなわち、観光でございます。
 30年以上も前ですが、小柳ルミ子さんの「瀬戸の花嫁」という歌が流行りましたよね。それは花嫁の出立の歌でありました。常に「ふるさと」が出てくるわけです。なぜこんなに流行ったのか。恐らく日本人のふるさとが、小柳ルミ子さんの歌うふるさとと重なったのではないかと思うわけです。要するに、瀬戸内海は日本人のふるさとではないということです。景観的な、あるいは文化ですね。

 ふるさとの瀬戸内海、その中でも、本島は豊かな歴史を持っています。縄文遺跡はなかったけど、中世以降の文化財がたくさんありますね。笠島の集落、その脇にある中世、戦国時代の笠島城です。笠島は、笠島城の城下町ですね。それから、島の中で最もお寺が多いのではないですか。しかも、そこにある仏様は、非常に優れている。まさに、瀬戸内海は日本人のふるさとですが、その歴史の豊さによって、ふるさとの中のふるさと、これが本島であると思うわけです。

 おそらく、多くの日本人がふるさとを求めて本島を訪れるのではないかと期待しているわけです。そのためには、本島にも人々を迎え入れる体制が必要ではないかと思うわけでございます。 以上、話が散漫になりましたけれども、私の話を終わらせていただきたいと思います。
※講演会の終了時間を過ぎたため、質疑・応答は行わず。
※本サイトに掲載している文章・文献・写真・イラストなどの二次使用は、固くお断りします。