「船の祭典2010共催事業」香川大学瀬戸内圏研究センターシンポジウム
 稲田 道彦 教授 「瀬戸内圏の島の暮らしの変化」

【講演内容】
 私は、今日は3つのお話をしようと思っています。最初は、1980年の頃に考えた日本の島を取り巻く要因という話題、2番目に、現在私が考える島をとりまく状況、最後に、私が島を考える時にいつも基準として考えている、香川県三豊市の「志々島」という小さな島についての話、この順で3つのお話をしたいと思っています。

 これは、私が島を考える時にいつも参考にする模式図です。
 1992年に作りました。島の性格を形作っている、島を決定付けている要因を考察したものです。大きな要因と小さな要因に分けて考えております。
 太い線で囲んだ5つの要因が、大きな要因として考えているものです。最初に、位置として周辺にあること、つまり、日本の島は、本土に対して周辺にばらまかれています。つまり、位置として周辺にあることが色々なことに影響すると考えました。
 例えば、外国に対しては、日本では島々が一番近いとすると、最初に外国人の入植を受け入れた島があります。現在も小笠原には、最初に住み着いた欧米系の人の子孫が住んでいます。
 それから、沖縄は、明治時代までは独立国で、中国などの外国からの物質や文化が流入していました。それが独自の自国の文化を作っていました。そういう離れた位置にある島というのは、本土に対して、独特な文化、生活や制度を作る傾向がありました。このことにおいて、島がどこにあるかという位置的な要因というのは、非常に大きいと思っておりました。

 次に「環海性」、海に囲まれているということですが、海に囲まれているというのは、私たちはネガティブな要因に捉えがちですが、考え方によっては、船さえあれば、海はぜんぶ道路なわけです。船さえあれば、どこにでも簡単に行けてしまいます。
 ですから、山奥の生活と海の生活を比べると、海の島の生活の方が、ずっと便利で豊かであったという時代が長く続きました。

 ところが、明治時代以降、道路交通が発達して、本土では、どんな山奥の家でも自動車が乗りつけられるという状況になっています。日本の山奥の生活の方が、船を持たない人の島の暮らしに比べて、相対的に便利になった、豊かになったといえます。ある意味でいいますと、時代の流れの中で、交通の便利さが相対的に逆転してしまったと考えております。

 海は便利だったという点において、交通・輸送の問題で、特に拠点となっている良い港のある島と、全く孤立している島というのは、2つの大きな筋道を辿ったというように感じておりました。ですから、輸送の拠点となった島というのは、非常に繁栄をしました。特に、瀬戸内海の島々というのは、私自身は、例え話で、現代の東名高速道路のパーキングエリア、サービスエリアだという風に思っております。

 つまり日本は、江戸時代は、ずっと船の状況が悪くて、幕府は政策的に大きな船を造らせなかったということもありました。船の発達が非常に貧しかったと思っております。江戸時代の前の時代は、フィリピンのルソンやシャム・バタビヤに行くことができるくらいの大きな船を持っていたのですけども、江戸幕府が大きな船を壊させました。
 その理由は、正式には出てこないんですけれども、私が推測するのに、大きな船に何百人も乗り込んで江戸湾に入ってきて、江戸城の裏に船を横付けすれば、すぐにクーデターが起こるからではないかと考えています。

  こうして、外国に行けるような船をことごとく壊させたということですから、装備的にもあまりよろしくない船で物資運搬をしていました。瀬戸内海は、両側に陸地があって、波の静かな航路ですから、船乗りは、できるだけ瀬戸内海を通りたいという望みがあったと思います。
 ですから、瀬戸内海にある島々、特に大きい船が乗り付けることのできる、良い港を持った島々というのは、日本の他の場所に比べて、繁栄をしていた時代だったと思っております。そして、明治の終わりの頃まで、瀬戸内海の島々の繁栄というのは続いていたと思っております。

 3番目の性格、「孤立性」に関して述べます。
 孤立している島というのは、自給自足で、自分たちで食べていかなければならないということで、自分たちが暮らす島の中で、何とかして生きていく方法を確立していったのではないかと考えます。条件の悪い中で、自分たちの生活をどのようにして確立するかという問題として見ますと、島の生活というのは、色んなものを生み出していったと考えられます。資源の少ない中で生活を確立する智恵には、学ぶところが大きいと思っています。
 環海性は、孤立していることと連動しています。海と向き合う生活です。海を最大限利用して、自分たちで必要なものを、自分たちで何とかしなければならない条件を、宿命的に持っております。

 それから4番目に、島の面積が小さいこと「狭小性」を挙げます。島というのは、面積の小さい場所なんですけども、面積が小さいということは、毎日の生活のなかで、非常に大きな制約がありました。
 その1つが「水」です。面積が小さくて、多くの島では川がないのですから、日々の水をどうやって確保するのかが大きな問題でした。
 それからもう1つは燃料です。木をいったん斬ってしまうと、20年は元に戻りませんから、日々の煮炊きに使う燃料をどうやって調達するのか、これも、島で生活する上で、非常に大きな制約要因になっておりました。
 この2つは現在はほとんど解消されております。水は海底送水、燃料はプロパンガスという形で、非常に簡単に手に入れることができるようになりました。ですから、以前の人が一番苦労した問題は現在では解決されています。

 狭いという問題のその先に、さらに島の産業の問題がありました。
 島は、農業や漁業が中心なんですけども、漁業というのは、古い時代をさかのぼってみますと、実はそれほど重要な産業ではなかったのです。ちょっと言い過ぎているかもしれませんが、たくさん魚が獲れても、近くで買ってくれる人がいない、つまりは、市場をどこにするのかということが重要だったからです。瀬戸内ですと大阪などの大きな市場に運ばなければいけないんですけども、それらを運ぶ運送業というものがありませんから、漁民が自分で運んで売らねばなければなりません。
 従って、たくさん獲れても、結局は、干物にして貯蔵し、出荷できる時期に出すというようなことしかありませんでしたから、今のような、運搬業であるとか、あるいは冷蔵技術の発明っていうのは、非常に大きいんですけれども、現在のように冷蔵庫が発明され貯蔵可能な漁業が盛んになるまでは、資源はあっても、産業として捉えることは難しい点がありました。
 また漁業には、船や網や人夫等、産業を興すのに初期投資が必要ですが、産業の少ない島では、資本の蓄積という点でも育ちにくい側面がありました。
 ですからそれまでは、島とはいえば農業で食べていく島が多かったように思います。つまり島々の中心的な産業は、農業だったと言えると考えています、しかし、面性の小さい島の農業には、工夫が必要ですが。島々の産業として農業と漁業、それから、特殊な産業として後から付け加わったのが、鉱工業であるとか観光であると考えております。

 5番目には、独自の自然環境を有しているということを挙げました。独自の自然環境、これは位置的なものと関係するでしょうし、また地質的なものとも関係すると思いますけれども、日本の場合は、北の方にあるのか、南の方にあるのか、かなり離れてるということが、独自の自然環境を作っておりましたし、島の成因として、火山であるとか、サンゴ礁であるとかというような事は、島の景観に多様な要素を生んでいたと思います。このことは産業にも観光資源にも関係すると思います。

 私自身、1980年から90年代に、島というのは我々の周りにありながら、こういう5つくらいの大きな要素を考え、それぞれが島という地域を形成するのに大きな意味を持っていると考えました。人の多いところでは、これらの条件はそんなに鋭敏に表れてこないんですけれども、島のような場所では、決定的にその一つ一つの要因の持つ重みが強く現われてくるように思いました。
 
 従いまして、島の生活というのは、現在の我々の生活を先取りしている部分、つまりは、社会的な要因の変化がいち早く影響力の大きな形で表れてくるような場所であると考えおりましたので、島の生活を見せてもらうということは、我々の社会の、社会条件の実験結果を見ているように思えました。これは今も変わらないと考えています。

 写真が悪いのですが、例えばこれは、藻場から浜に打ち上げられた藻を畑にすきこんで、肥料にしている写真です。高見島で撮影しました。1980年代の瀬戸内海の島は、周りにあるものをうまく自分たちの生活のなかに生かす工夫がありました。

 これも見づらいんですけども、こちら側に家があって、家の裏側がこういう土塀といいますか、石を挟み込んだ土の崖になっています。この崖から染み出してきた水を、ここに溜めて、この先に大きな穴を掘って水を溜めています。これがこの家の飲料水なんです。つまり、こういう自分の家の裏の土塀から染み出してきた水を使う、というような生活をしていました。
 ですから、水が少ない所の集落では、それを活かして、自分たちが上手く生活していくための工夫ができていました。私自身が、その島の生活の中で人々が編み出したものというものがすごく面白くて、見て歩いていました。1980年から90年代にかけてです。

 ここは、高見島の「板持」という集落の一番奥の家だったんですけれども、去年、学生と一緒に行きました。すると、もうこの家までたどり着けないくらい竹ヤブが茂っていて、そしてこの家には、とっくに人が住んでおらず、板持の集落の中でも一番最後まで人が暮らしていたお家なんですけども、今はいらっしゃらなくて、家のそばまで近寄れないような状況になっていました。こういう、色んな形で編み出されてきた生活というようなものが、無くなっていったんだなと思っております。

 それから、今日お配りしたこんな小さなパンフレットがあるんですが、これは、お墓の、瀬戸内海の島の「両墓制」の写真集です。お墓が、どのような形で瀬戸内海で分布し、分散しているかを示しています。
 私は、お墓の中に、彼らの生活、人生としての結果、自分たちの落ち着き先をどう考えているのかというように見させてもらっていました。島々で、自分たちの人生の落ち着き先というようなものを、こういう形で表現するんだと思っていました。それを写真で取りためていたんです。
 ちょっと話が飛ぶんですが、去年、観光地理学という授業を行ったのですが、瀬戸内海における「死後の思想」は、都会の人々が見に行きたいほどの魅力をもつ観光資源になるだろうかと考えました。観光という要素を、もう少し広げて考えることができないだろうかと考え、こういう昔の姿が面白いなと思って見に来てくれる人の存在は、すごくありがたいのではないかと思い、このような写真集を作りました。
 人が長い間生活してきた生活そのものが、人を惹きつける魅力になると思っております。

 もう1つ、2009年のことですが、出生率上位が南の島という新聞記事です。出生率が上位の場所というのは島、まあ全部っていうと叱られますけども、鹿児島県の伊仙町から始まって、島々なんですね。しかも、その上位35位のうち25市町村が、西日本の島だったんです。
 瀬戸内海の島というのは、こんなに高齢化で人口が減少しているのに、南の島々というのは、なぜ元気がいいのか考えました。瀬戸内海の島がどんどんどんどん落ち込んでいくというか、人が住めなくなる、住まなくなるという状況の中で、南の島々では、子どもがどんどん生まれている状況です。この両者の違いが、すごく気になっておりました。

 2番目の話題に移ります。これは私が、さきほどのチャートに変わるものを作ろうということで作りました。
 1つは、「離島振興法」という法律は、ずいぶんと島の姿を変えたと思っております。離島振興法というのは、昭和30年代に島の生活が非常に悲惨であるという認識から出発しました。さらに、島は非常に離れた場所で日本の領海を守っています。漁業や海底資源からも国としての非常に重要な位置にありました。そこに人々に住んでくれているというのは非常にありがたいことであり、そこに住んでいる人々の生活を支援したいというようなことで出てきました。
 特に外洋の離島は、手を入れておかなければ、人々がいなくなってしまうという危機感があった一方で、人の多い内海離島は、それほどでもない。外洋、外海離島に比べて、内海離島というのは、最初は二段階で法律が作られていきますし、内海離島というのは、離島の指定条件も厳しくできていました。
 現実にこう見てみると、外海離島と内海離島の差というのは、非常に大きいものがあるように思っております。それで、私自身も、その島を歩いていて、外海離島と内海離島、特に瀬戸内海の人々が、なぜ、こんなに生活が立ち行かなくなっているんだろうかという思いで見ることが多いです。

 外海離島では、地理的に孤立しています。それから、内海離島では、他の島が近いという違いがあります。そしておそらく、孤立している所から来ることと思うのですが、外海離島では、独自に生きていく生活のシステムを作る方向で動いてきたように思います。それから、島内のコミュニティが成立しています。自立的な生活環境を維持するためのシステムを作ろうという方向に、人々のエネルギーが向いています。ですから、人々の生活が、うまくひとつのシステムとして出来上がっていると見ることができます。
 産業の維持と創出、特に、色々なことを失敗しながら、島の中で生きていくための産業が作られていっているという思いで見ました。こういうことを、いくつかの島々を回りながら思っておりました。
 例えば、観光に関して、「御蔵島」では、「イルカのウォッチング」というようなものであったり、山の巨木を巡る「エコロジカルツアー」のガイドであったり、色々な形で、自分たちで生きていくための産業のようなものを作っているというように、そんな活力をすごく感じることが多いです。

 一方、内海離島というのは、位置的な状況から来るのでしょうが、行政的に、本土の中心地の属島となってしまっている場合が多いです。ですから、自分たちの、独自の行政的な意思決定機能を失ってしまう。自分たちで何とかしようというようには思わない、あるいは、成り行き任せてというような、今あるものをあまり変えないで維持していこうというような、そういう意識の島が多いように感じています。
 これは、証明するとかしないとかっていうものではなくて、私がこう感じているレベルなんですけども、そういう自律的な思考の欠如が、今の生活をどれだけ維持していくかというようなことを考える、大きな差になっているように思っております。
 それから、年齢的に非常にいびつなコミュニティを作ってしまう。つまり、子どもがいなくなってしまった島は、非常にたくさんあります。子どもがいなくなってしまった島というのは、現象はそれだけなんですけども、島としての活力が削がれていると思っております。いくらお金を持って豊かに人々が生活していても、社会の中に子どもがいないと、つまり子どもの親世代もいないんですけれども、そういう社会の中で暮らすという、いびつさというのはすごく感じております。「限界集落」もその先に出てきております。 

 内海離島と外海離島を比べると、なぜ、内海離島から人々がこのように出て行ってしまうんでしょうか。生活するという点でも交通の点でも便利だし、そんなに内海と外海ではそう差がないっていうように思っていたんですけども。私も気になって色々聞いて回っているんですけども、その1つのその仮説というのは、島から本土が見えというのは、内海離島にとってはメリットであるはずなのに、実はデメリットではないのかということです。
 つまり、「ちょっと行けばあんなに気楽な生活があるのに、私たちは、なぜ20分離れているだけで、こんなに不便な生活を強いられてくるんだろうか。」というような気持ちがあるのではないのかということです。隣の島とは船で1時間以上見えない所に離れてしまっいて、皆で腹をくくってなんとかしようと思っている人たちと、ちょっと行けば抜け出せるかもわからないと思っている人たちの、この心理っていうのが、ひょっとすると、これを生んでしまったのかなということです。それだけではないよと言われるかもしれませんが、こういう部分も、内海離島の今の現状を生んでいく要因ではないのかと思っています。

 離島振興法は、島の生活改善に大きな役割を果たしました。離島振興法による援助は、島の生活のインフラストラクチャー(基礎)の状況を高めました。島の生活が容易になるように、生活条件が随分と改善されました。その結果として、島が本土に比べて生活しにくいという条件が緩和されました。
 しかし、島が本土とは海で隔てられているという、位置的な条件だけは変えることができませんでした。橋で本土と結ばれた、櫃石、岩黒、与島という島々でも、人口は減り続けています。金を注ぎ込んでも注ぎ込んでも、島の人口は減り続けるというジレンマを、この2番目の図で示そうとしました。

 この模式図で、島の産業は農業で、多くの島は、島ならではの作物を失ってしまい・・という風にちょっと書いたんですけども、実は、そのオリーブだとか果樹だとか花卉(かき)などのように、その島ならでは、というようなものを生み出すエネルギーは今もあります。私が行っていた少し前には、除虫菊の栽培が、島の産業としては非常に活発でした。それから、花の栽培っていうようなものも、かなり盛んだったんですけども、今、花は島でなくても十分できます。島のメリットというのは、暖かい海流で、早く花が咲く、咲かせることができるという環境に適応することが、安価に花を作ることができるという経済的メリットにつながっていたんですけども、いまは、それほどのメリットになっていません。

 それから、漁業は以前に比べるとかなり盛んになっているっていうように感じていますけども、それでも、漁業で生活している島というのは、そうたくさんないと思っています。漁業専業で、自分たちの生活が成立している島っていうのは、そう多くないのではないか、これも明確に証明したわけではないんですけども、そういう印象を持っております。このようなことから、おそらく、観光というのが島の人々がこれから先、生きていく上で有力な手段になるのではないかと思っております。

 ただ、観光といっても、大勢の人が来てくれればそれでいい、というだけではないと思っていまして、つまり、10年先も同じように島の生活が続けていけるような、生活手段のひとつとして、観光というようなものを考えた方がいいのではないかと考えております。ですから、観光というのは、何千人来たから成功で、200人しか来なかったから失敗というような捉え方ではなくて、20人しか住んでいない島には、年間40人来ればそれでいいのではないか、つまりは、観光というのは、訪れた人がその地で何を考え、何を得るのかという気持ちによっていると思います。

 島に来て、観光に来て、もう少し考えていますのは、島の観光というのは、その先に、この島が良いと思って住んでくれる人を生み出していけたら、一番いいと思っています。そのためには、やはり、島の良さというものを見つけてほしい。観光客が、そのきっかけになってくれればいいかなと思っています。
 島には、若く元気のいい人が来てほしい。でも、誰でも来てほしいのではなくて、今までの島の伝統を大切に考える人であるとか、今までにない視点で島の生活を見てくれる人、それから、島の困難をともに解決しようとする人、島民の生活を尊重する人に来てもらいたいと思っています。そのきっかけとして、観光というものがあればと考えています。
 このパンフレットを作った時も、島の生活の豊かさに触れる、そういうきっかけで島に来てくれる人が訪れ始めると、今までのように、大勢で来て大騒ぎして帰っていく、というような観光じゃない観光のような姿があるのではないかなと考えています。

 この離島振興法というのは、島のために必要な法律だったんですけども、一方で、交通だとか港湾だとか水道ですね、それから道路であるとか、こういう生活の基本的な条件を、都会と変わらないようなものに整備したということにおいて、今まで島の人々が工夫して作り上げてきた「島のシステム」というようなものを、変えざるを得なかったと思っております。
 離島振興法が、非常に長い間にわたって島の生活に経済的な側面的に援助し、今の生活を作りました。つまり、島にいても本土にいても、そう変わらない生活を保障するような形になっていきましたが、しかしそのことが、島から人が減っていくということにどうつながるのでしょうか。

 次にお話しするのは「志々島」です。三豊市に属している島ですけども、非常に小さな島です。
 いま人口が、これは2005年の国勢調査の結果なんですけども、28世帯で35人住んでいます。今日お配りしたプリントにも、35人となっていますけども、先週、志々島に行って聞きましたら28人とおっしゃっていました。ですから、実際には28人くらい住んでいる島です。それで、人口ピラミッドに5歳刻みの人口構成があるんですけども、一番若い人でも50~54歳に1人です。見事に、50歳以上のみの島になっております。志々島は、なぜこのようになったんだろうかというようなことを常々思っております。

 これは、1983年に、志々島に行き始めた頃の島の景色です。これが2007年の島の景色です。こういうように花畑を作っていました。金盞花(キンセンカ)やマーガレットストックであるとか、花で島中が埋め尽くされていた時代であります。
 これが現在の姿で、畑がぜんぶ放っておかれて、山林といいますか、元の原野に戻っています。頂上の所にちょっと畑が残っています。ここで花を作って今も販売しています。
 正確な年度を失念しましたが、志々島は、1980年頃に詫間町に合併します。詫間、粟島、志々島が一緒になり、本土と粟島、志々島という三者の農協も一緒になりますが、そのうち、預金残高でいうと、志々島がダントツに多いんです。本土の詫間や粟島は、志々島より人口も面積も大きいにも関わらずです。こういうことからも、おそらく花の生産が彼らの生活を側面から大きく支えていたと考えられます。
 しかし、それが今はもう、まさにこういう景観になってしまっているということは、花の生産では、上手く生活ができないっていうことと、高齢化が進んでしまったということです。老人では、なかなか畑が耕せなくなってしまったっていうことが言えます。

 明治32年と平成8年の地図を塗った土地利用図ですけれども、この黄色い所が畑なんです。
 ちょっとここにも黄色い畑があるんですが、あとは山林になっています。
 赤いのは荒地で、こういう形で、志々島の植生というものも、ずっと島中を耕していた時代から、もうここの区に畑が残っているだけという状況に変わってきております。

 次に、これは住民票の人数を書いています。人口は、ずっとマイナスが続いています。社会移動も自然移動も、死亡数が毎年あって、それから出生数はずっとゼロです。ですから、もう島の人口はずっと減り続けています。そういう社会ですから、20人位の人は、10年もすれば誰もいなくなると言われ続けました。
 ところが、この何十年という人口減少が、昨年止まりました。島に60歳で定年を迎えられた方が、2家族入ってこられました。
 そのことが、島の人々の生活をいかに明るくしてるのか。
 例えば、屋根の上の屋根の瓦が動いて雨漏りがしたら直してもらうだとか、道の草取りをしてもらったり。今、2家族入ってきて、その人たちが、本当に島の人々の望んでいたことをやってくれているという思いが、強く表れています。もう少しお話しなければいけないんですが、なぜこんなに志々島で人口が減ってくのでしょうか。

 これは住宅地図で、黒い所が人の住んでる家を示しています。1983年と2003年を比べます。
 例えば、この地図を見ていただくと分かるんですけど、ここに県道があるんですけども、この県道は自動車が走れない道です。ですから、志々島には自動車が通る道がない。こういうお家はどうしてるのかというと、例えば、荷物を全部背中に背負って、階段状の道を持ち上げています。
 ですから、こういう家にここのお家のおばさんというか、もう少しお年を取ったご婦人ですけども、ずっとプロパンガスを肩に背負って上がっておりました。”おりました”と言いますのは、去年亡くなってしまわれたので、もう持ち上げなくてよくなったのですが、ではなぜ、この島に自動車が通る道路ができなかったのだろうか、ということが問題だと思っておりました。
 一時期、詫間町から、道路を作ろうっていう話がありました。ここに大楠があるんですけども、大楠までの間に、自動車の通れる道路を作ろうっていう計画があったんですけれども、島の人は反対されました。
 その理由の1つは、当時、一番重要な畑の上をその道路が通るというのは、主要産業の農業ができなくなるので困るということ、それからもう1つは、島で運転免許を持っている人が1人もいなかったということ。その当時は、こんなに自動車が必要になるとは、誰も思わなかった。
 1980年代の当初に島の人が寄り集まってそういう意思決定をしました。そのことが、今の生活をとても圧迫しているというように考えることができます。つまり、1回の会議でその道路をつけるかつけないか、非常に簡単に考えたんだと思いますけども、そのことが持っていた歴史的な意義というのは、非常に大きいと思ってます。
 ここのお家がなくなったのは、実はここに移転するわけです。急病になった時に、山道だけでは誰も運べない。だから、あなた方はここに住むんじゃなくて、ここに行きなさいよと移転します。そういう意味で、いろいろの歴史的な事象がつながって、今の生活になっております。私にとって、島を考える時の発想の基準にする島として、志々島があります。

 これは2007年の住宅地図です。先ほども申しましたが、今ここに一軒と、それからここに一軒人が入ってきて、新しい若い人が入って来るっていうのが、こんなに島のコミュニティを豊かにして、人々を生き生きとさせるものかというような、そんな思いでちょっと去年からこう見ております。

 現在、再び花で志々島をいっぱいにしようという動きがあって、マーガレットを植えて、昔の花の島を復活しようというような動きがあります。

 ここに歴史の年表をつけたのですが、例えば、菓子の専売制なんていうのがあります。島にお菓子を持ちこんではならない。お菓子は、この専売店から買わなければいけない。そこの権利の収入で学校を維持します、なんてことを島でやっていました。ですので、島の生活を自分たちで上手くコントロールするという仕組みができていました。そのことが、今は完全に失われてしまっています。
 島の高齢化というものが、島の生活に色々な形で影響しているんだと思っています。島という社会では、様々な条件が結びあって、島という地域社会を作っています。その結ばれ方の変化が、島の社会の変化を作っていると考えています。
 これからも、その地域社会の中での結ばれ方を、ほぐして考えていきたいと思っております。以上です。



【質疑・応答】
Q.私は財団の仕事をしている関係で、後ろにいらっしゃる岡市先生はじめ、他の方々と島を回っております。今聞いたようなお話の光景を毎年見ながら、非常に気持ちが暗くなる思いをしています。お話の中で観光が有力な手段になりうるのではないかというお話がありました。確かにそうかなという思いを私も思っておるのですが、お話のポイントは、いま何か新しいものを作るのではなくて、かつてあったもの、それから、今あるものをそのまま見てもらう、それでいいんじゃないかという理解でよろしいでしょうか?

A.はい。今日お配りしたこの本の所で、与島について書かせていただいたのですけれども、与島には巨大なパーキングエリアとかレジャー施設ができたのですが、結局、それと島の生活というようなものが連動していません。与島は、架橋4島の中心になるだろうと思っていたのですが、学校が全部廃校になりました。子どもがいなくなってしまいました。そういうことを考えてみますと、やはり、住民の中から出てくる観光、生活に根差した観光が大切ではないでしょうか。
 この本にも書かせてもらったのですけど、隣の岩黒島には、以前、民宿はなかったのですが、架橋後に3軒できました。去年1軒がやめたので2軒の民宿があって、そこには名物料理、タコメシを食べさせる度に人々が寄ってきます。漁師のおかみさんが、自分の家で獲れたものを、その観光資源にする形で民宿を開いています。結局、その中から出てきた観光は、住民の生活を作り上げていく意味で、原動力になると思っております。
 大型観光について判断の基準を持っていませんので良くは判りませんが、私自身は心配しています。何にもないような小さな島が生き残っていくために、自分たちが思考錯誤の上で編み出していくような観光でなければ、長続きしないのではないかと思っております。
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