香川大学瀬戸内圏研究センター学術講演会  西田 正憲氏 「風景の記憶と観光のまなざし」

【講演内容】
 奈良県立大学の西田でございます。どうぞよろしくお願いします。

 今日は、「風景の記憶と観光のまなざし」というテーマですが、いま風景の記憶、あるいは記憶の風景と言ってもいいのですが、そういう「記憶」というものが、とても大切な時代になっています。記憶の風景に向かって、人々は注目します。眼差しというのは、視線であるわけですが、主体が客体を見つめる視線を、ここでは眼差しと呼んでいます。いま現代人の眼差しは、記憶というものに向かっているのではないかというお話です。

 私は「風景論」というのをやっております。風景論というのは、人間が風景をどう評価するかを論じるものでありますが、風景というのは、つまるところ、人間が環境に対して意味付けすること、価値付けすることだと思います。
 「こんな風景が心地よい」、「こんな風景が美しい」、「こんな風景は意味がある」。それは、人間がそういう風に意味付け、価値付けをするわけであります。どんな風景を意味付けするか、あるいは価値付けするかは、環境にも属性があるわけですが、風景というのは、基本的に人間の問題であります。

 このスライドは、江戸後期、広重の「六十余州名所図会」でありますが、瀬戸内海の名所が捉えられました。全国の名所が捉えられたのですが、その中で、こういう瀬戸内海沿岸の風景が、名所図会に残されております。これは主に、海岸の風景です。
 当時の日本人は、海岸を美しいと愛でて、海岸に、歌枕の地や名所旧跡をいっぱい作り上げましたが、そういうものが瀬戸内海にも蓄積しておりました。
 江戸後期には、もうひとつ別の見方が現れます。漢学者たちが独特の風景のとらえ方をして、それを全国に知らしめ、名所に仕立て上げていきます。私はこれを、「漢文学の風景」と読んでいますが、頼山陽が「耶馬渓」を見出し、斎藤拙堂が「月ヶ瀬」を見出し・・という風に、あちこちに漢学者が名所作りをしていきます。小豆島の「寒霞渓」も、当時は字が違いましたが、こういう風に、漢学者の眼差しでとらえられたものです。

 漢学者は、奇岩怪石の風景を捉え、浮かびあがらせていきました。私は長い間、なぜこんな岩礁の風景がいいのか、奇岩の風景がいいのか、分からなかったのですが、それは結局、中国文学の中で、こういう奇岩怪石の風景があると語られ、日本の漢学者・儒学者たちがそれを読んで、きっとこの風景は、日本ではこういうところだろうと勝手に解釈して、見出していくわけです。見立てをしていくわけです。ある意味では、誤解をしていくわけですが、岡山県の「豪渓」という名所は、武元登々庵・北林という漢学者によって見出されました。これは、中国の武夷山という場所の風景描写を、中国文学で読んで、渓流があって奇岩があると知る。きっと豪渓と一緒だろう、ということで豪渓を売り出していくわけです。しかし、中国の武夷山というのは、現在、世界自然遺産になっているような壮麗な場所です。大きく誤解していったわけですが、そのようにして日本の風景を見出し、浮かび上がらせていきました。

 やがて19世紀の欧米人が、瀬戸内海の美しさを、また別の目で見出して行きます。これは、私があちこちで語っておりますので、今日はあまり語りませんが、19世紀の欧米人というのは、ロマン主義的な見方で風景を捉えて、それを愛でて人々に普及していったわけです。

 19世紀の欧米人の見方を知って、日本人も驚くわけです。このスライドは、冒頭に「観光」という岩倉具視の揮毫(きごう=毛筆書)が載っている「特命全権大使米欧回覧実記」の報告書であります。きっと、この「観光」は、文明の光を見てきたぞ、という意味だと思いますが、その中に、瀬戸内海について、西洋人が「世界第一の景」と言っていると知って、驚くわけです。
 日本人は、アメリカ、ヨーロッパに出かけて初めて、瀬戸内海が、世界で評判であることを、知って驚くわけです。瀬戸内海は、ある意味で、ラッキーだったのです。世界的交通ルートの中に、早くから組み込まれました。1868年に、サンフランシスコ、横浜、神戸、長崎、上海という定期航路が開設されますが、この定期船のルートに組み込まれたわけです。だからなおさら、瀬戸内海の風景というのは広まっていきました。

 このスライドもご存じでしょうが、「瀬戸内海は世界の宝石」と新渡戸稲造が言いました。彼は国際人で、ドイツ、アメリカに留学し、世界のことを知っていたわけですが、そういう視野をもって、世界の宝石と語りました。ただこれも、詳しく読んでいると、どうも伝統的風景を褒めているようなところはありますが、まあ世界の宝石だと言いました。

 この文章は、「瀬戸内海論」に寄せられた文章です。1911年、明治44年、香川県の小西和が、「瀬戸内海論」を著します。札幌の農学校を出て、北海道でしばらく農場経営をして、その後、朝日新聞の記者なり、日露戦争に従軍します。絵が達者なのですね、右のような絵と文章を、新聞社に送り続けます。
 右上は、彼が生まれた生家ですが、これは1994年の写真。昔、私が一所懸命探して、ああここだと思って撮った写真ですが、今はどうなっているか知りません。
 この同じ明治44年には、蒼々たる画家たちが、瀬戸内海に写生旅行に来ます。当時の新進気鋭の画家たちです。

 彼らは、小豆島の商人に招かれて、瀬戸内海を見て絵をいっぱい書きためて、「十人写生旅行」「瀬戸内海写生一週」という本にまとめていきます。つまり、「瀬戸内海論」が出た明治44年、画家たちもまた、こういう風に、瀬戸内海に注目していたわけです。これは当時、瀬戸内海が輝いていたということだと思います。

 この若き新進気鋭の画家たちは、若いころ、アルフレッド・パーソンズというイギリスの水彩画家に感銘を受けていました。
 パーソンズは、日本に約1年近くいて瀬戸内海を描いたり、吉野を描いたり、日光を描いたり、このスライドのように、水彩で、非常に綺麗な絵を描きました。
 若き画家たちは、その当時の名所絵や四季絵しか知りませんでしたから、水彩でリアルに、しかも、普通の風景が、こんなに美しく描けるのかと衝撃を受けます。つまり、瀬戸内海の普通の風景に対して、眼差しを向けて行くわけです。名所絵や四季絵の世界とは違う世界が、ここに広がっていきます。

 この若き画家たちのひとり「大下藤次郎」は、小豆島の風景だと思いますが、このスライドのような絵を描きます。色がだいぶ落ちておりますが、これはいま、現代の我々から見ると、まあ普通の風景ですね。
 しかしこれは、ある意味で画期的であります。普通の風景画であり、普通の自然景観を捉えたわけです。それまでは、先ほどの名所図会のように、名所が瀬戸内海の風景だったわけですが、こういう穏やかな水面、多島海、海岸、そういうものが浮かび上がってきたわけです。

 瀬戸内海の景観については、多くの人が色々と語っております。1894年、明治27年の、志賀重昂の「日本風景論」は、日本全国の風景の特質を捉えたものですが、彼もまた、瀬戸内海を絶賛していました。
 スライドのように、いろんな人がいろんなことを語っていますが、私は、「自然・歴史・文化の重層性と多様性」こそが、瀬戸内海の景観の特質だろうと思います。ちょっと抽象的ではありますが。

 少し風景の記憶をたどっていきたいと思います。今回、いろんな写真を撮って、写真をコピーしてきました。まず1930年頃の風景ですが、こういう島の隅々まで耕された風景、あるいは、帆かけ舟が浮かんでいる風景、あるいは、なにかを出荷しているような工業の活気がある風景、あるいは、人々が船を使って移動する日常の営みの風景などがあります。

 1960年頃には、このスライドのように、花の瀬戸内海のようなイメージが広がっていきます。もともと瀬戸内海は、綿とか除虫菊とか、そういう花の生産地であったわけですが。
 1960年代、高度経済成長期には、花卉(かき)園芸が盛んになって、花のイメージが定着していきます。

 いうまでもなく、瀬戸内海というのは、生業の地であります。農の営み、工の営み、商の営み、そういう様々な営みが行われているわけです。こういう風景は、当時の写真では、いっぱい出てきます。
 でも現在では、少し遠くなった風景、離れていく風景という感じがしますが、かつて、こういう風景がいっぱい語られていました。産業の風景も、1960年代には、ポジティブに捉えられています。工業がおきることは良いことだ、活気があって力強くて良いことだと、そういうポジティブな風景として、浮かびあがってきたのだろうと思います。

 ちょっと話は飛びますが、1980年代には、「緑川洋一」が瀬戸内海の風景を広めていきます。これは、いかにも写真のテクニックの中で創り出された風景ではありますが、ただ、現代の文化的景観の先取りをしたのだろうと私は思います。
 いま世界遺産の中でも、文化的景観として、農業景観、営みの景観が文化を反映した自然ということで、グローバルに評価されています。緑川洋一は、ひび(葦の雑木)、生簀などの漁業の風景を、非常に美しく捉えていきました。これは、文化的景観を、写真芸術に昇華させたのだろうと思います。

 現代の1990年代には、このスライドのような写真集が出てきます。私は、これもある意味で画期的というか、やはり、風景の見方が変わってきているのだろうと思います。干潟や藻場が、大きく写真のモチーフで出てきます。
 干潟は、1980年頃から、しきりに捉えられてきていますが、やはり現代は、干潟が消えていく中で再評価され、評価が高まって、写真集にもどんどん取り上げられるのだろうと思います。このスライドの写真集は、「海からの伝言」ということで、科学的な写真集ではありますが、恐らく、この科学的な見方で捉えた写真・風景が、やっぱり徐々に徐々に、ひとつの風景観として、人々に影響していくのだろうと思います。
 特に、アマモの藻場の写真は、海の中に、こんな緑の美しい風景があるのかということで、最近、特にいろんな形で捉えられているのだろうと思います。藻場が大きく消えていく中で、風景としても評価されていくということです。

 この写真家・高橋毅さんの2005年の写真集「瀬戸内の楽園」は、「楽園」という言葉で瀬戸内海が語られています。これは、瀬戸内海を美しく映し出している芸術写真でありますが、私はここに、「風景の遺伝子」とでもいうべきものが、執拗に捉えられていると思います。
 瀬戸内海の「風景の遺伝子」というのはこうだよと提示し、美しく表現しているのだと思います。きっと、風景がなくなっていく、消えていく中で、その遺伝子をなんとか残さないといけない、というような思いを込めているのではないかと思います。

 生簀とか干潟の写真も出てきますが、このスライドのように、花の風景もこの写真集には多く出てきます。いったいどこに、こういう生業としての花の風景があるのかと思うわけですが、そういうものを探し出してきて捉えてられるのでしょう。なかには、観光用のものもあるかもしれませんが、こういう花の瀬戸内海というのは、やはり大きな瀬戸内海の特質で、きっと消えて欲しくない風景なのだろうと思います。

 このスライドも、瀬戸内海環境保全協会が、2007年に公募でアマチュアカメラマンから募った写真を選定している写真集です。やはりここでも、花というのは、非常には大きなモチーフにとして扱われている。つまり、瀬戸内海を語るときに、この花の風景というのは、瀬戸内海の典型的風景として捉えられているのだろうと思います。

 あるいは、このスライドのような漁の風景、生き物の風景、活気のある風景、生簀や古い港の風景、そういうものがいま、瀬戸内海の象徴というか、シンボリックなものとして捉えられています。

 またスライドには、干潟も出てきますし港町も出てきます。賑やかというか、立て込んだ港町と言ったほうがいいでしょうか、瀬戸内海らしい港町です。さらに、工場がシルエットで出てきます。シルエットで捉えるというのは、工場そのものは、やはりどこかネガティブなものとしてみているのかもしれません。しかし、風景の見方というのは、確実に変わっていきます。風景の評価も確実に変わっていきます。
 いま私は、若い人々が産業景観、特に、日本の高度経済成長期を支えたダイナミックな工場景観を、高く評価していることに驚きます。若い人たちは、そういう風景も、ポジティブな風景として捉えているのだろうと思います。
 20世紀は産業の時代でしたが、21世紀は、ある意味で情報の時代。そういう風に社会の枠組みが変わると、産業も相対化されて、風景として捉えられていくのだろうと思います。香川で言えば、坂出の「番の洲工業地帯」は、かつて、悪者のように叩かれました。鷲羽山の展望地の真正面に見え、瀬戸大橋の玄関にあたるところでした。しかしひょっとしたら、今の若い世代は、あのような産業景観にも、風景としての意味を見出しているのかもしれません。

 さて、風景の記憶についてですが、我々は、おじいちゃんおばあちゃんから聞いて知っている風景もあれば、自分の目で見て知っている風景もある。しかしやはり、相当離れた遠い過去の風景は、忘れ去っていくし、また、今の風景も遠い未来には引き継がれません。
 いま、記憶が大切だ、いろんな記憶の風景が見直されているという事例を出しましたが、これはある意味で、「現在世代」、現在世代と言っても幅がありますが、現在世代にとって大切な記憶の風景なのですね。我々の記憶にきちっと残っているけれども、どうも現実として消えていっている風景。そういうものが大切なのだろうと思います。
 ある意味で言うと、これは、風景のエゴイズムなのですね。
 つまり、過去の世代がどう評価しようと、あるいは未来世代がどう評価しようと、我々にとって大切な記憶の風景が重要なのです。だから、失われていく小学校とか、失われていく民家とか、我々にとってはとても大切なのです。現在世代に大切な記憶を残す風景は、評価するのです。花の瀬戸内海もそうだと思います。風景にはそういうエゴイズムが働くけれど、やっぱり我々にとっての記憶が大切なのだろうと思います。

 このスライドは直島の現代アートですが、よくご存じのとおり、非常に賑わっています。私はここにも、現代アートが見せるものは、その土地の記憶、場所の記憶なのだろうと思います。
 現代アートがあることによって、それに気付かされる。遠い場所から来る人も「そうか、少し前にはこんな生活があったのか」という風に、記憶に目覚める。現代アートの魅力もいろいろありますが、直島に魅了される一因は、そういうことではなかろうかと思っております。

 このスライドは、直島の神社の再生であります。ある意味で、土地の地霊ゲニウス・ロキを再生したということであります。

 このスライドは、犬島の精練所ですが、精練所に現代アートを作る。やはりこれも、精練所というのはひょっとしたら、ある時代の人々にとっては公害であまり、好ましい風景ではなかったかもしれない。
 しかし、現代の我々にとっては、ある種、明治・大正の息吹を感じさせる風景として、大切な記憶の風景なのだろうと思います。

 いま直島で、現代アートによって様々な風景が浮かび上がっていると思います。記憶を大切にしたいというその記憶を表す風景の評価が高まっている。
 その風景は、言い換えれば、連続する時間、連続する空間の風景だと言えます。
 20世紀は、風土と断絶することによって、壮大な都市文明を築いてきました。過去の歴史を断ち切ることによって、その場所でどんなことがあったのかということを無視することによって、都市を築いてきたのだろうと思います。
 でも、直島で感じさせることは、そういう過去に繋がる時間がそこにある。あるいは、自然に繋がる風土がそこにはある。そういう近現代文明が失った連続性が、そこにはある。
 これはある意味で、文明を映し出す鏡となっているのだろうと思います。場所の記憶を捉えなおす、場所の記憶を浮かび上がらせる。そういう風に、人々は風景を見つめる。これは、意味の風景の捉え直しとも言えますが、場所にはいろんな意味がある、それをいま、風景として見つめようとしているのだろうと私は思います。

 私は風景評価の大きな流れを、「自然史の風景から人類史の風景へ」というような言い方をしていますが、かつては、生態学とか自然の尺度で評価する風景、それを「自然史の風景」と呼びますが、そのような自然史の風景を評価しました。そういうことが、1960年代頃には高まりました。原生林のような自然史の風景が、最高に評価されました。
 こういう中で、瀬戸内海の地位は低下したのだろうと思います。しかし、1990年代以降、農業景観とか里地里山とか湿地とか、人間との関わりで、風景を捉える動きが出てきているのだろうと思います。人間との関わりで風景を評価する、それを「人類史の風景」と呼んでいます。自然史の風景から、人類史の風景へという一連の動きの中で、風景の記憶も浮かび上がっているのだろうと思います。

 20世紀では評価されなかった、こういう風景が今や評価されて来ております。

 生物多様性・文化的景観の概念、あるいは、近代文明の見直し、そういう中で、新たな風景が照射されていく。瀬戸内海はいま、そういう潮流の真っただ中にあるのだろうと私は思います。

 瀬戸内海の観光は、近世あるいは近代の初頭くらいまでは、歌枕とか名所旧跡、そういう名所遊覧、あるいは、社寺参詣が行われていました。
 戦後は、国立公園に代表されるように、多島海の自然景観、あるいは、先ほどの花の風景、そういうものが出てきたのだろうと思います。
 1990年代には、ウォーターフロントなどが華々しく出てきました。同様に、本四架橋も出てきました。現代はアートツーリズムなどが頑張っております。

 観光の眼差しということについて最後に語っておきたいと思いますが、「眼差し」というのは、冒頭にも話しましたが、視線でありますが、わざわざ眼差しというような言葉に訳させています。
 もともと、フランス哲学で出てきた言葉で、フランス哲学は、文学的に語りますので、きっと、訳す時に文学的な言葉で「眼差し」と訳したのだと思います。ドイツ哲学なら「視線」と訳したであろうと思います。観光の眼差しというのは、「The Tourist Gaze」というのが原題であります。観光客の視線なのですね。
 観光客の視線が、何に投げかけられるか。これをイギリスの社会学者ジョン・アーリが、分析したわけです。日本語訳にしたとき、観光の眼差しという風に訳しましたが、観光客が何に目を向けるかということです。ジョン・アーリという人は、もう一方で、「場所を消費する」という言葉でも、場所、景観などの問題を分析しています。

 私は観光の眼差し、観光客の視線については、いまこれを大まかに言えば、ひとつは「オーセンティックな風景」に向かっており、もうひとつは「シミュラークルな風景」に向かっているのだろうと思います。
 オーセンティックというのは、オーセンティシティー、つまり「本物」であります。場所性とか風土性とか、そういうものを大切にする、そういうものに眼差しが向かうわけです。本物の環境の一部を、風景として捉えていきます。
 一方、シミュラークルな風景というのは、「没場所性・都市性」とスライドには書きましたが、これは、テーマパークとか大型商業施設が典型的であります。外との関係を断ち切って、内部に、非常に快適な空間を生み出す。それは、風土と無関係な場所を生み出す。そこでは、風景を見る自己自身が風景になっていきます。そこに行く人、美術館とかテーマパークに行く人は、そこにいる自分を風景として、自己陶酔的に想像しようとします。
 こういう見方をしていくと、高松のこのあたりは、シミュラークルな場所かもしません。しかし、瀬戸内海にとって大切なのは、オーセンティックな風景だろうと思います。直島に人を集めているように、場所性・風土性を残すところが大切なのだろうと思います。

 そういう中でいま、ニューツーリズムが注目されていますが、従来のマスツーリズムとは違う、少数の「スモールツーリズム」が多様に展開しているのだろうと思います。施設に依存しない資源に依存する、ハードではないソフトな観光が出てきているのだろうと思います。

 これからの瀬戸内海にとって大切なことは、ここではやっぱり、本物が残っているということです。島は確かに、疲弊して大変だけれど、島には多様な文化が残っているし、本物が残っています。20世紀に生きた我々は、そういう本物を見て感動する。それは、20世紀が失った空間と時間であり、風土と連なり、過去とも連なっている、そういう風景なのだろうと思います。
 ただし、風景だけでは恐らく、現代人を引きつけることは無理だろうと思います。
 瀬戸内海というのは、穏やかな風景、なによりも、穏やかな風土の風景が真骨頂でありますが、穏やかな風景プラス何かという付加価値を探していかなくてはなりません。きっとその付加価値が大切なのだろうと思います。
 風景の見方は変わると言いましたが、やはり、150年前に多島海の風景が評価されたから、もう一度見直そうというのは、なかなか無理な話なのだろうと思います。それは、見直すときには、新たな付加価値をつけて、新たな意味付け、価値付けをして見直して行くべきなのだろうと思います。はい、以上です。



【質疑・応答】
Q.どうも、お話ありがとうございました。最後に先生は、今まで行ってきたものだけではなくて、新たな形として、「プラスα」の付加価値を付けていかないといけないであろうと話されました。配布された要旨には、「心・癒し・食・生業・アート・環境・産業・平和」とあります。それぞれにいろんな価値があると思いますが、西田先生ご自身は、この中でこれから何が最も追及されるべき付加価値だとお考えでしょうか?

A.瀬戸内海で考えられる付加価値をここに上げました。心・癒し・食・生業・アート・環境・産業・平和、瀬戸内海ではもっとあるかもしれないけど、こういう潜在力が多様にあるのだろうと思います。だから、何が絶対ということではなく、瀬戸内海というのは、これだけ多様性を持っているぞ、と言いたかったところです。また、スライドにちょっと書いてありますが、いま国際観光として「アジア観光ビックバン」とも言われますが、アジアの人をどう呼び込むか、ということが大きな課題です。瀬戸内海には、残念ながらアジアの人はあまり来てくれません。しかし、朝鮮通信使の繋がりとか、本物の瀬戸内海とか、アジアの人々を呼ぶ付加価値もいっぱいあるのだろうという風に思っています。


Q.私はよく島に行きますけども、現代でも、それぞれある意味で島は閉じられた空間であり、それぞれの島が持っている、あるいは、目指す文化は、必ずしも一致はしていません。島の人達は、人口が減少する中で、讃岐の広島、伊吹島、粟島、本島と、それぞれは違った方向ではありますが、先生も言われました、プラスαの価値付けに向かって何かを作ろうとしています。それを、今後どのようにまとめて、瀬戸内海の風景として展開していくのか、私は、必ずしも、まとまることはなくて、人々が持っている活力は、それぞれの文化のなかで自ずと作るものではないかと、極めて楽観的に見ているんですが、先生、島の活動をいかがお考えでしょう。

A.いまや、岡市先生が島のことを一番にご存じではなかろうか思うくらいに、よく島に行っておられますね。先生のご報告とか、讃岐瀬戸塾の活動とか拝見していても、驚くのは、島には島の固有の文化があるということです。隣の島と違うものがあるという、そういう多様性が浮き彫りになったのだろうなと思います。どこも大変で、疲弊しているということも事実ですが、しかし、瀬戸内海のこの穏やかな風土の中で、すごく多様な島々がいっぱいある。「島めぐり」はなかなか簡単なことではありませんが、島めぐりで多様性を捉えていくことが大切だと思います。この島ではこういう食文化ある、この島ではこういう環境学習ができるとか、まだまだ潜在力があるのだろうと思います。問題は、どう発信していくか、なんだろうと思います。岡市先生がいま関わっておられる国際芸術祭も、おそらくこの夏は、きっと島の多様性を多くの人に見せるのだろうと思います。島の活動と同様、国際芸術祭は、この島はこんなのだったのか、ということが分かる意味で、すごい意味があるのだろうと思います。そういう瀬戸内海の中にある多様性を出すことが大切で、それが出せる場が、瀬戸内海だと思います。
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